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TBS「グランメゾン東京」、働く男の逆転劇で光る「むかしの木村拓哉」像

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

日曜劇場『グランメゾン東京』の木村拓哉に、むやみに惹きつけられる。

何だろう。第一話から目が離せなくなった。

TBS日曜9時のドラマ枠・日曜劇場は2013年の『半沢直樹』の成功以来、“働く男たちの逆転劇”が繰り返し作られている。『ルーズヴェルト・ゲーム』『下町ロケット』『陸王』『集団左遷』『ノーサイド・ゲーム』と、毎回ではないが、男たちの熱い姿を描いている。

うまくいくと、かなりの支持を集める。そうでなくてもそこそこ評価が高い。

みんな、そういう話が好きなのだ。

ある程度のポジションいた主人公が、落ちぶれる。

ちょっとした失敗・勘違いをきっかけに、悪意ある排除にまきこまれ、裏切られる、もしくは罠に嵌められる。それまでの地位を失った主人公は、失地回復をめざし、再び戦いを挑む。熱い物語である。

見ている者は一緒に悔しいおもいをし、再び立ち上がる姿に共感し、戦う主人公を応援しつづける。

昔からある型どおりのパターンだからこそ、力強い物語である。

パターンを踏襲してどう魅力的に見せるか、ドラマ制作者の腕の見せどころである。

映画『七人の侍』のようなおもしろさ

逆転ドラマは、ある種、安心して見ていられる。

最後は逆転する。完全勝利でなくても、見てる者が納得する展開を見せてくれる。必ず「溜飲の下がるおもい」をさせてくれる。

だからこそ、作り方はむずかしい。

主人公がどうやって落ちぶれるのか、落ちぶれたときはどう振る舞うのか、再び浮上する決意はどう表すのか、そこの描き方がむずかしい。そういうシーンまでありふれたものになると、人は見なくなる。むずかしい。

すごくうまく作れば視聴率20%を超えることがある。うまくいかないと10%を切って沈んでいく。むずかしい。

木村拓哉の『グランメゾン東京』も失地回復する物語である。ただ、いままでのものとは微妙に違う。

まず会社の話ではない。町工場の話でもない。つまり組織の話ではない。

料理人の話である。一匹狼のお話。

腕は抜群に優れているが、どの店にも雇ってもらえない天才シェフが主人公だ。

おそろしく繊細な舌を持った女性料理人(鈴木京香)と、二人で店を始めようとする。

一流シェフだけど性格と前歴に問題のある主人公は、仲間を集めるのにも苦労する。

そこからおもしろい。

一緒に戦う仲間を集めるところから話が始まるのだ。

ロールプレイングゲームでの仲間探しから描かれている。べつの言い方をすれば『七人の侍』の志村喬が浪人者を集めているのと同じだ。ただただ、わくわくする。

同じ逆転もの、つまり憎たらしいやつを最後にぎゃふんと言わせてくれるシリーズだけど、最初のこの「わくわく感」がずいぶんと違う。素敵である。

料理のドラマということもあるのだろう。

料理の撮り方がとても美しい。

もちろん美味しそうなのだが、美味しそうでとどまっているレベルではない。

すごく美しく撮られている。「料理の美」を強く意識した映像が作られている。

すべての料理を美術作品のように撮ろう、と決めて撮影されているのではないだろうか。

高級フレンチはもちろん、その素材たち、賄い、ふだんの食事までもとても美しく撮られているのだ。映像が強い。惹きつけられる。それはドラマの力になっていく。ドラマ制作への意気込みがひしひしと感じられる。

天才的な料理人だがダメ男を演じる木村拓哉

そして木村拓哉。

天才的な料理人ではあるが、人としてはダメなところが多い男。時代劇でいえば浪人者ですな。時代劇で言う必要はないんだけど。

セクシーな役だ。恋愛の要素は物語の前面には出てこないだろうけど、だからその仕事姿がきわめてセクシーに見える。惹きつけられる。

何だか木村拓哉が元通りの役どころに戻った感じがする。

木村拓哉は平成の日本ドラマを支えた俳優である。

1990年代後半の主演ドラマが次々と高視聴率をたたきだした。

そして1990年から2000年代の若者に強く影響を与えた。キムタクをそのまま真似する人は一部だったとおもうけど、彼の一部を取り入れたり、彼がいいと言ったものを身につけた男性はものすごく多かったはずだ。

ちょっとした社会的存在だった。

そのため21世紀になると、彼の主演したドラマはヒットすることを宿命づけられた。

そこそこの視聴率では批判された。関係なく見ているこっちまでつらくなるような状況だった。(本人はさほどつらくおもってなかったのではないかと想像するが)。

わかりやすくスターである。

人気絶頂のスターは常に批判にさらされる。しかたがない。インターネットの出現という社会基盤の変革時期だったので、嫉妬がよりストレートに出てきていた時代でもあった。なかなか厳しい状況を生き抜いてきている。

むかしの木村拓哉が戻ってきたよう

 

今回の『グランメゾン東京』を見て、むかしの木村拓哉を見てる気分になった。そこがおそらく胸に迫ってきたのだ。とても個人的な風景だけど。

むかしというのは『ロングバケーション』(1996年)やその前後の時代である。有名ではあるが、まだ天下を取る前の木村拓哉。なんかとても気になる存在だったころ。

『あすなろ白書』(1993年)や『若者のすべて』(1994年)のあたりだ。加えるなら『協奏曲』(1996年)『ギフト』(1997年)『眠れる森』(1998年)などの彼一人では作られてなかったドラマの時代。色気を派手に撒き散らしながら、それよりも秘めた野心が弾けるように滲み出し、それが気になってしかたなかった存在。そういう野心の時代のキムタクをこのドラマから感じたのだ。

『グランメゾン東京』の第一話、パリの街頭を借金取りに追われて走ってるシーンを見て、ああ、キムタクの走りだ、とおもいだして懐かしかった。最近、あまり走った姿を見てなかったのかもしれない。キムタクの走りは足の動きに特徴がある。べつにかっこいいわけではない。膝が内に少し入っていく走りだ。でも、その走ってる姿を見て、いろんなことをおもいだす。

何だろう。木村拓哉はとても近くに感じられるのだ。

木村拓哉の底力だろう。

彼はスターだから近い存在なわけがない。

ドラマに出たお笑い芸人に親近感を感じるのとはわけが違う。

でもドラマを見ていると、木村拓哉をとても近く感じてしまう。そういう強い錯覚を起こさせるところが彼の力である。

それが他の主演役者とは違うところだ。

大泉洋や、福山雅治や、阿部寛、堺雅人とは何か味わいが違う。いいところか悪いところか、わからない。その空気が苦手な人もいるだろう。

木村拓哉が動いていると、同調してしまう。応援するのではなく、自分のこととして見ている。不思議な気分である。木村拓哉の頑張りは、他人事ではない。自分のことでもある。

だからそういうふうに見られないと、つらいだろう。彼は見る人を選んでしまう。

他の役者のときは、ふつうに落ち着いて応援していられるのに、木村拓哉だと、役の人物と同時に演じている木村拓哉のことまで一緒に気遣ってしまう。よくわからない感覚だ。

おそらく存在感の問題だ。

自分に対する自信と不安にリンクしてしまうのだ。

だから前に進もうとする木村拓哉を見ているだけで元気になる。

鈴木京香が最初からのパートナーである。色恋沙汰はうしろにまわっている。

ここに沢村一樹が加わってくる。対立しつつ仲間ができていく過程にわくわくする。優れた少年漫画を読んでいるみたいだ。 

ドラマの冒頭で、主人公はフランスで二つ星を取った一流シェフとして登場していた。

アレルギー事件を起こし、底辺に落ちる。ただ、底辺にいるときの彼がとても明るい。底辺からてっぺんを目指してる空気が前向きである。これが木村拓哉の気配なのだ。それがドラマのトーンを形成している。彼にはやはり「喜劇」が似合う。(逆転ドラマは、すべて喜劇である)。

前へ、上へと進もうとするお話は、見ていて元気になる。

期待のドラマである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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