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「叩いてもうまくいかないと気づいた」体操・宮川紗江への暴力指導騒動から4年、速見佑斗コーチの今

金明昱スポーツライター
4月の全日本選手権で現場復帰した速見佑斗コーチ(撮影・倉増崇史)

「ようやくスタートラインに立てました。やっとここに来ることができました」

 体操女子リオ五輪代表 の宮川紗江を指導する速見佑斗氏コーチは、4年ぶりにコーチとして大会に同行し、現場復帰した際の心境をこう語った。

 2018年8月、教え子である宮川への暴力指導が発覚した後、無期限の登録抹消処分を受けて大会から姿を消していた速見氏だったが、今年3月に日本体操協会理事会で復帰が承認されていた。

 現場復帰までの4年間、氏は誰にも明かせない悩みや葛藤を抱えていた。暴力指導をしていた過去の過ちを認め、再び歩み始めた速見コーチの現在の心境と、これからについて話を聞いた。

「スタートラインに立てた」

 速見コーチの復帰の舞台となったのは4月の全日本体操個人総合選手権。大会にコーチとして同行し、小学5年生の頃から指導している宮川と会場で言葉を交わし、側でサポートできる喜びを強く感じていた。

「私にとってはスタートラインです。それに(宮川)紗江をサポートできることはもちろん、会場でいろんな先生方やコーチ、関係者の方々が、喜んで出迎えてくれたことが、本当にうれしかったです」

 宮川は決勝に進んだが、跳馬でミスをして結果は23位。しかし結果にかかわらず、再び2人で次のパリ五輪に向けて体操に打ち込める環境に戻ることができたことが、何よりもうれしかった。

 選手と指導者の2人の関係が“引き裂かれた”事件”は、今から4年前の2018年に起きた。当時、新聞やネット、ワイドショーを騒がせただけに、記憶している人も多いかもしれない。

 速見コーチが練習中に教え子である宮川の顔を叩くなどの暴力指導をしていたとして、日本体操協会が事情聴取。本人がそれを認めたため、協会は2018年8月8日の常務理事会で、倫理規程(第3条)の違反行為にあたると判断し、「永久追放」に次いで重い無期限の「登録抹消」の懲戒処分を決めた。

 その影響は大きかった。ナショナルトレーニングセンター(東京・北区)の使用が禁止されたため、当時、同施設を拠点に練習していた日本代表の宮川への指導は、規則上できなくなった。

 そして宮川もこの一件の影響で練習に集中できない状態が続き、代表合宿や世界体操競技選手権大会などの出場を辞退。「東京2020オリンピック特別強化のための強化指定選手」に選ばれず、海外遠征試合のメンバーからも外れた。

 そこから今年4月までの約4年という歳月は、決して短い期間ではない。この間、速見コーチはどのように過ごしていたのだろうか。

「現場復帰は無理だと思っていた」

「不安というか、正直、もう復帰は無理だと思っていました 」

 速見コーチは当時を振り返り、自分はもう現場には立てないと、どこかで覚悟を決めていたという。

「処分が決定してから4~5カ月ほどは、ずっと家にいました。あの当時は本当にすさまじい騒ぎだったので、僕がクラブに出向いても、迷惑がかかるだろうと思っていたので…」

 騒ぎ立てるマスコミを前に、速見コーチは何もできずにいた。しかし、速見コーチが宮川の信頼を失っていたわけではなかった。そして速見コーチも、自分のことより、宮川のメンタル状態のほうが気になっていた。

「自分がやったことなので、僕が責められるのは当然なのですが、紗江のコンディションの不調や、精神的につぶれてしまうんじゃないかという不安は大きかったです。なので、紗江とは連絡をとっていました。練習はこうしたほうがいいよとか、毎日の体の調子や気分を確認するくらいのやりとりでしたが…」

 何もできない状況のまま5カ月が過ぎた頃「ならわ体操クラブ」(愛知県)から声がかかった。

 「登録抹消」の速見コーチだったが、実はナショナルトレーニングセンター以外の練習場所であれば、宮川を指導することは可能だった。そのため、2人の練習場所にと、声をかけてくれた体操関係者も多かったという。

「クラブの先生から『練習にくればいい』と誘われました」。声をかけてもらったのはうれしかったが、迷いがなかったわけではない。「僕自身がというよりも、行った先のクラブがそういう目で見られないか、何か危害を加えられないかと心配でした」。

速見コーチは神妙な面持ちで復帰までの4年間を振り返った(撮影・倉増崇史)
速見コーチは神妙な面持ちで復帰までの4年間を振り返った(撮影・倉増崇史)

 世間から好奇の目にさらされている自分が関わることで、周囲に迷惑をかけたくなかった。事件から5カ月が経過した当時でさえ、「当たり前かのように、誹謗(ひぼう)中傷がたくさんあった」からだ。ただ、それでも前に進むしかなかった。

 その後、「徳洲会体操クラブ」(神奈川県)からも声がかかり、アテネ五輪男子体操主将を務めた同クラブの米田功監督からはこんな言葉をかけられた。

「『徳洲会としてサポートすると決めた以上は、周りからどう言われようが関係ない』と。紗江にとっても、今後の体操人生でプラスになるようにしたいと言ってくれました。米田さんは本当にブレない人。この一言はとても大きかったです」

 こうして手を差し伸べてくれる人がいるからこそ、人はまた失敗から立ち上がることができる。速見コーチは、決して一人で闘っていたわけではなかったのだ。

「叩いてうまくいったことはなかった」という気づき

 共に体操界を支えてきた人たちからの協力のおかげで、宮川への直接指導ができるようになった。とはいえ、登録抹消が解けない間は、試合会場に入ることができない。

 そんな中、自身の指導方法を一から見つめ直したという。

「“叩く”という行為はあの一件以来、一度もしていません」

 速見コーチはそう断言した。宮川への“暴力的”な指導を認め、会見で「危険を伴う場面では、叩いてでも教えるのが重要だと思っていた。が、ここ数年は(暴力は)良くないと分かっていながらも、我慢できずに叩いてしまったこともある」と語っていたが、どのような考えへと変化していったのだろうか。

「正直に言えば、すぐに指導についての考えを改めるのは難しかったです。指導していく中で、うまくいかないことはたくさんあります。世界のトップレベルで競争するには、時に厳しさも必要ですし、自分の中に湧き出る喜怒哀楽の感情に向き合いながら、これからどのように指導すべきか。とても悩みました。以前であれば、叩いていたと思う場面もありました」

 最近では秀岳館高校サッカー部での暴行がニュースとなったが、日本のスポーツ界における暴力指導問題は今も根強く残る。そんなニュースを自分の境遇と重ねつつ、速見コーチはこの4年間で一つ大きく気づいたことがあったという。

「冷静に過去の自分を見つめ直したときに、『叩いたおかげで選手が何かをできるようになった』ことはなかった。それに気づくことができました。試合でうまくいったり、パフォーマンスが良くなったりするのは、結局は選手自身がその気になっている時です。僕はそれを『自分が叩いたから、うまくいった』、と錯覚していただけだったんです」

 一方で速見コーチは、指導の形や選手へのアプローチの方法については今尚模索中だ。

「どうすれば選手が向上するのかは、すごく難しいです。今も試行錯誤を続けています。心理学を学んだり、メンタルトレーニングも受けたりなど、勉強して得られたものはたくさんありました。でもそれを実際に現場でやろうとすると、やっぱりうまくいかなくて…。選手にも感情の波があって、当然やる気がないときもあります。でも『やる気ない』ばかりじゃ駄目で、そういう日が多いと選手は絶対に上にはいけません」

 悩みながらも前に進み始めた速見コーチの周りには、指導者として新たなステージに立ったと喜んでくれる人たちが周囲にいる。それはとても幸せなことだと言えるだろう。

 日本体操協会は再発防止策として埼玉県協会が3年間、毎月の活動報告を求め、定期的な面談を実施するとしている。その上で、速見コーチは自身の暴力行為を見つめ直し、今後こういうことが現場で起こらないようにするため、「教える側の指導者やコーチのメンタルケアの相談窓口も増えればいいと思います」との考えも強調していた。

今年4月の全日本体操個人総合選手権で4年ぶりに宮川に同行してアドバイスを送った
今年4月の全日本体操個人総合選手権で4年ぶりに宮川に同行してアドバイスを送った写真:YUTAKA/アフロスポーツ

宮川紗江との「約束を守るため」

 世間からのバッシングを浴び、4年にも及ぶ出口の見えないトンネルを歩き続ける中でも、なぜ速見氏は宮川のコーチをやめなかったのだろうか。収入面など生活苦もあったはずだ。

「セインツ体操クラブにいた頃は、自分で店舗の運営をしていましたが、あの一件があって手放してしまいました。僕は一応パソコンを使ってネット関連の仕事ができたので、ホームページを作ったり編集作業をしたりして、お金を稼いだりしていました」

 事件後の宮川には「高須クリニック」がスポンサーとしてついており、当初はそこからコーチ契約料も出ていたという。しかし、スポンサー契約が満了したあとは、「自分の貯金を切り崩しながらやっていたので、正直、厳しかったです」と苦笑いを浮かべる。

 それでも、「宮川との約束を守ることが第一だった」と何度も繰り返した。宮川は東京五輪に向けてはベストを尽くすも、代表からは落選。それでも、リオデジャネイロで感動したという五輪の舞台に再び立ちたいとパリを目指している。

「やめない理由はシンプルなんです。紗江がパリ五輪を目指すと言っているからです。紗江が引退するまではコーチをやると決めていましたから。紗江が頑張っているのに、僕だけが逃げるわけにはいかなかった。僕が迷惑を掛けたわけですから…。あの一件がなければ、彼女の選手人生はもっと順調だったはずですし、彼女は何も悪いことをしていないのに、僕のせいで苦しませてしまった。なので、自分が最後まで責任を持たないというのは、選択肢としてあり得なかった」

 速見コーチの言葉からは、覚悟が伝わってきた。4年前の後悔を次のパリ五輪で晴らし、責務を全うしたいという強い気持ちがあったのだ。

「紗江が演技で満足している姿を見るのが一番」

 どうすれば、速見コーチの心は晴れるのか――。インタビューの前は、パリ五輪で表彰台に立つ宮川の姿がその答えだと思っていたが、そうではないようだ。

「もちろんパリ五輪でメダルを取ってほしいという気持ちはありますし、それを目標にしています。でも、今の正直な心境としては、試合で紗江自身が全力で喜んでいたら、それが一番です。演技をやり切って、満足して、すごく喜んでいる姿が見られれば、それが一番うれしい」

 人には消したい過去があり、表には出したくない話もある。それでも人は何度もでもやり直せるはずだ。これから2年後、宮川が日本代表として五輪の舞台に立ち、最高の演技を見せること。それが大会復帰した速見コーチの生きる目標であり、生き様なのかもしれない。

現在の心境を赤裸々に語ってくれた速見コーチ。宮川紗江と2024年パリ五輪出場を目指す(撮影・倉増崇史)
現在の心境を赤裸々に語ってくれた速見コーチ。宮川紗江と2024年パリ五輪出場を目指す(撮影・倉増崇史)

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スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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