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ダレン・ウォートンズ・レネゲイド始動。2024年、シン・リジィの名曲の数々がよみがえる【前編】

山崎智之音楽ライター
Darren Wharton(写真:REX/アフロ)

ダレン・ウォートンが率いるシン・リジィへのトリビュート・プロジェクト、ダレン・ウォートンズ・レネゲイドが2024年に始動する。

1980年、18歳の若さでシン・リジィに加入。キーボード奏者として『チャイナタウン』(1980)『反逆者』(1981)『サンダー・アンド・ライトニング』(1983)という後期3枚のアルバムに参加したダレンはバンドの解散後にデアーを結成。自らリード・ヴォーカルも取り、英国メロディック・ハード・ロックを代表するバンドのひとつとして支持を得ている。

そのダレンがプロ・キャリアの原点であるシン・リジィの楽曲をプレイするプロジェクトを立ち上げるというニュースは、瞬時に世界を駆け巡った。2024年1月3日、アイルランドのダブリンで初ライヴを行うことが発表され、次々とヨーロッパでの公演が告知されている状況だが、ライヴのメンバーは?どんな曲をプレイするのか?今後の活動は?...など、気になることばかりだ。そこで我々はダレンをキャッチ、本人の口からレネゲイドについて語ってもらうことにした。

全2回のインタビューで、彼はレネゲイドに加えてデアーの現状、シン・リジィとフィル・ライノットの思い出、日本への想いなどについて話してくれた。まずは前編を。

Darren Wharton's Renegadeポスター/ courtesy of Darren Wharton
Darren Wharton's Renegadeポスター/ courtesy of Darren Wharton

<シン・リジィの曲を思い切りライヴでプレイしたかった>

●シン・リジィが解散したのは1983年ですが、それから40年の節目となる2023年はファンにとって嬉しい1年となりました。名盤ライヴ・アルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』(1978)のデラックス・エディション、『ラスト・ライヴ』(1983)のリマスター再発、初期の傑作『西洋無頼 Vagabonds Of The Western World』(1973)デラックス・エディション、またデアーの作品で最もシン・リジィ色が濃いもののひとつである『ブラッド・フロム・ザ・ストーン』(1991)の再レコーディング、そしてダレン・ウォートンズ・レネゲイドの始動と、嬉しいことばかりです。

うん、シン・リジィの音楽が聴き継がれていることは嬉しいし、バンドの歴史に自分が名前を連ねることが出来たことは誇りに思っている。『ブラッド・フロム・ストーン』の再レコーディングは必要に迫られたことなんだ。アルバムは世界各国で廃盤で、なかなか聴けない状態だ。当時契約していた“A&Mレコーズ”の音源は現在“ユニバーサル・レコーズ”が権利を持っていて、ずっと配信サービスに入れて欲しいと交渉してきたけど、実現してこなかった。それで再レコーディングして自分たちでリリースすることにしたんだ。まるっきり同じように再演するのではなく、オリジナルを生かしながらモダンなアレンジを加えたりしている。俺のヴォーカルははるかに上達したし、演奏も良い。きっとオールド・ファンも新しいヴァージョンを気に入ってくれると思うね。

●デアーでレコード会社と契約した当時、契約書をよく読み込んでいなかったのでしょうか?

そういうわけでもなかったけどね...メジャーのレコード会社と契約するというのは、彼らが作品を管理下に置くということなんだよ。クレイジーだと思うかも知れないけど、それが音楽ビジネスというものなんだ。彼らが“死んだアルバム”だと判断すれば、そのまま廃盤になってマスターテープは倉庫の片隅に追いやられてしまう。『アウト・オブ・ザ・サイレンス』(1988)も同じ理由で再レコーディングしたんだ。その後オリジナルも配信されるようになったから、今では両ヴァージョンを聴いて比較することが出来るよ。

●ダレン・ウォートンズ・レネゲイドを結成したのには、どのような経緯があったのですか?

ずっと前からシン・リジィの曲を思い切りライヴでプレイしたかったんだ。俺はまだ20歳になったばかりで、世界をツアーして回るなんて夢のような経験だった。初めて日本に行った(1980年)のは自分のミュージシャン人生のハイライトのひとつだよ。フィル・ライノットと共作した「エンジェル・オブ・デス」や「夕暮れにてThe Sun Goes Down」は誇りにしている。ブライアン・ダウニーのような素晴らしいドラマー、スコット・ゴーハムやスノーウィ・ホワイト、ジョン・サイクスのような最高のギタリストと共演して、さまざまなことを学ぶことが出来た。バンドが解散した後も、世界のあちこちのカヴァー・バンドから声をかけられて、トリビュート・イベントなどに出演してきたよ。先月(2023年8月)もダブリンでゲストとして歌ってきたばかりだ。シン・リジィは『ライヴ・アンド・デンジャラス』がロックのライヴ・アルバムの最高峰といわれるけど、それ以降もたくさんの名曲がある。デアーのメンバーは全員がシン・リジィのファンだし、いつかシン・リジィの曲をやるライヴをやろうと話し合っていたんだ。とにかく大好きな曲をプレイして、ファンのみんなと楽しみたかった。

●レネゲイドのメンバーはデアーと同じなのですか?

基本的にはね。ヴィニー・バーンズ(ギター)、ナイジェル・クラターバック(ベース)、グレッグ・モーガン(ドラムス)、それに加えてセカンド・ギタリストとしてアンディ・ムーアという編成だよ。アンディはデアーでプレイしたこともあって、長い友人なんだ。だからレネゲイドは新バンドというより、デアーの別プロジェクトともいえるだろうね。

●レネゲイドではあなたがシン・リジィに加入して以降の曲をプレイするのですか?それとも「ヤツらは町へ The Boys Are Back In Town」や「脱獄 Jailbreak」のようなクラシックスも演奏しますか?

それらの曲をやるまでステージを下ろしてもらえないと思うよ(笑)。俺自身が聴いて育った曲だし、ぜひプレイしたいんだ。ライヴを見に来るお客さんも、きっと聴きたいんじゃないかな。それに加えて『チャイナタウン』や『反逆者』からの、みんながライヴで聴いたことがない曲もやりたいんだ。シン・リジィのドラマーだったブライアン・ダウニーは自分のバンド(アライヴ・アンド・デンジャラス)で『ライヴ・アンド・デンジャラス』期のクラシックスをプレイしているけど、それ以降の曲はあまりやらないからね。シン・リジィの音楽のセレブレーションにしたいんだ。

●レネゲイドの告知フライヤーでは“シン・リジィとフィル・ライノットの音楽のセレブレーション”と記されていますが、あなたが参加したフィルのソロ・アルバム『フィリップ・ライノット・アルバム』(1982)からの曲、たとえば「オールド・タウン」などもプレイするでしょうか?

フィルの名前を載せたのは、彼がシン・リジィのフロントマンでソングライターだったことが理由だった。「オールド・タウン」などをやることは考えていなかったけど、やってみても面白いかもね。考えてみるよ。自分が関わっていない「イエロー・パール」とかはやらないだろうけどね。

●レネゲイドではあなた自身がヴォーカルを取るのですか?

うん、そのつもりだよ。フィルと声質は異なるけど、4年近くのあいだ一緒に活動して、彼の歌い方が頭に染みついているし、自分の人生の重要な一部だからね。当時の曲を歌うのは楽しいし、他の誰かに渡すつもりはないよ(笑)!

●2005年にダブリンでフィルの銅像が建立されたとき、ゲイリー・ムーアが中心となってシン・リジィの曲をプレイする記念ライヴが行われましたが、ゲイリーは「ギターのパートを思い出すよりも声域が異なるせいで歌うのが大変だった」と言っていました。

うん、どうしても似ない部分はあるけど、それは“味”として容赦して欲しい。フィルに敬意を払いながら、彼の模倣でなく自分らしく歌うようにしているよ。でもフィルが歌うバックを務めてきたのが自分の根っこの部分にあるし、それほど苦労しない。決してフィルを失望させることはないだろう。それだけは言っておくよ。デアーの『Arc Of The Dawn』(2009)ではシン・リジィの「エメラルド」をやっているけど、それを聴いてもらえば俺の気持ちは伝わると信じている。オリジナルとは異なっているけど、とても気に入っているよ。

●「キング・オブ・スペイズ」(『アウト・オブ・ザ・サイレンス』収録)はライヴでシン・リジィの「ブラック・ローズ」のフレーズを挿入させたりもしていますね。

「キング・オブ・スペイズ」を書いたとき、「ブラック・ローズ」と似た空気を感じたんだ。それであれこれいじってみて、融合させることにした。ライヴのアレンジを気に入って、『Out Of The Silence II』(2018)でスタジオ・ヴァージョンを録っているよ。

●レネゲイドのデビュー・ライヴは2024年1月3・4日、ダブリンで行われるフィル・ライノット・トリビュート・コンサート“ザ・デディケイション”の初日と発表されましたが、その後にツアーなどは予定されていますか?

いや、現時点ではレネゲイドとしては単発のライヴやフェスティバル出演をしていくつもりだ。大規模なツアーは考えていないよ。北欧で3回のショーがブッキングされているし、イギリスでも数回ショーをやりたい。シン・リジィとフィルの音楽を愛していて、いつまでも生かしていたいと考えるのと同時に、自分の音楽性を表現する場はデアーだと信じているからね。

Thin Lizzy 1983 / courtesy of Darren Wharton
Thin Lizzy 1983 / courtesy of Darren Wharton

<フィルは同じところに留まることが出来ない人間だった>

●フィル・ライノットとはどのように出会ったのですか?

マンチェスターの酒場でピアノを弾いていたんだ。それでフィルの友人のジョー・リーチが常連客だった。それで俺のことを紹介してくれたんだよ。そのちょっと前(1979年7月)ゲイリー・ムーアがシン・リジィの北米ツアー中に職場放棄して、代役としてミッジ・ユーアがツアーに同行した。ミッジは数ヶ月後に本業のウルトラヴォックスに戻っていったけど、フィルはバンドにキーボードのテクスチャーを取り入れることを思い立ったんだ。ジョーからオーディションについての電話をもらったとき、俺はまだ17歳とかだったよ。彼らが『チャイナタウン』をレコーディングしているスタジオに連れて行かれた。「チャイナタウン」を初めて聴かされて、何か弾いてみろと言われたんだ。俺の演奏をフィルは気に入って、もう数曲を弾けるようになって翌週スタジオに行ったら、「来週からワールド・ツアーだけど、来れる?」と訊かれた(笑)。そうしてライヴの演奏曲目を練習して、空港で合流したんだ。

●1979年頃からフィルとスコットはヘロインに手を出すようになったと聞きますが、バンドの状態はどんなものでしたか?

まったく問題なかったよ。少しばかりドラッグはやっていたかも知れないけど、レコーディングやステージは常に絶好調だった。それから数年して深刻になってからも、彼らはまだガキだった俺がそういうものに手を出さないように保護してくれていたんだ。彼らと一緒にやれたのは名誉だったね。

●スノーウィ・ホワイトとの関係はどのようなものでしたか?

スノーウィは俺より数ヶ月前にバンドに加入したんだ。『チャイナタウン』を出したあたりから、決してハッピーではないようだったね。彼のプレイのスタイルや性格はバンドに合っていなかった。それはフィルも判っていたし、結局友好的に別々の道を行くことになったんだ。次のアルバムのプロデューサーにクリス・サンガリーデスを起用することになって、彼がジョン・サイクスを紹介してくれた。タイガース・オブ・パンタンを手がけて、凄いギタリストだと知っていたからね。そうして『サンダー・アンド・ライトニング』を作ることになったんだ。

●ジョン・サイクスとは同世代でしたが、若者同士で呼応しあうものはありましたか?

ジョンと俺はほぼ同年代だったし(ジョンは1959年、ダレンは1961年生まれ)、仲も良かった。ただそれはバンド全員がそうで、フィルはずっと年上だったけど、いつだって楽しかったよ。俺はスノーウィとも良い関係だったし、シン・リジィは家族のようなバンドだった。俺が加入したとき彼らは全員まだ30代だったし、決して“年寄り”ではなかった。今の俺よりもずっと若かったんだ。

●あなたは『チャイナタウン』当時サポート・メンバー扱いでしたが、『反逆者』では正式メンバーとしてクレジットされていました。その違いはどんなものでしたか?

うーん、実はそれほど変わらなかったんだ。公式発表もなく、契約上も同じで、バンドの事務所に雇われて、作曲に関わった曲の印税やツアーのギャラを支払われていた。『反逆者』の裏ジャケットに写真が載らなかったのは残念だった。レイアウトでメンバー5人全員の写真が収まりきらないからって、俺だけ載せてもらえなかったんだ!ただツアーではバンドの一員として扱われたし、ギャラも良かった。良い待遇だったと思うよ。

●『チャイナタウン』発表後の1981年、シン・リジィはシングル「Trouble Boys b/w Memory Pain」を発表しましたが、それらの曲はアルバムに収録されず、そのままフェイドアウトしていきました。それにはどんな事情があったのでしょうか?

バンド内で「Trouble Boys」を気に入っていたのはフィル1人だったと記憶している。マネージャーもメンバーも「よした方がいい」と言って、アルバムに入れないよう説得したんだ。...「Memory Pain」なんて曲はあったっけ?まったく記憶にないなあ...。

●あなたが加入した時期、イギリスでヘヴィ・メタルがトレンドになって、シン・リジィも『反逆者』『サンダー・アンド・ライトニング』でよりメタリックなアプローチを取っていましたが、あなたはそんな方向のシフトにどう関わっていましたか?

バンド全体がヘヴィな方向に進んでいたんだ。決してトレンドに迎合するわけではなく、自然な流れだった。フィルはその時々のミュージシャンの持ち味を引き出すのが巧かった。スノーウィはブルージーなギタリストだったけどすごくアグレッシヴにも弾けたし、ジョン・サイクスは強力なヘヴィ・メタル・ギタリストだった。それ以前のエリック・ベル、ブライアン・ロバートソン、ゲイリー・ムーアもシン・リジィで独自のスタイルを取り入れていたんだ。だから『チャイナタウン』は『ブラック・ローズ』と異なっていたし、『反逆者』もまた異なっていた。俺も自分なりの要素を加えることが出来たと思う。

●シン・リジィの一員として1980年・1983年に日本公演を行ったときのことをどう記憶していますか?

とにかくワオ!と思ったよ。俺はまだ19歳の若僧だったんだ。日本の文化も食事も、すべてが大好きになった。ファンも誰もが礼儀正しく寛大で、もっと頻繁にプレイ出来たら良いと思っている。デアーでもレネゲイドでも、ぜひ日本でのツアーを組んで欲しいね。

●1983年5月のジャパン・ツアーの後、フィルはブライアン・ダウニー、ジョン・サイクスと共に7月〜8月にスウェーデンのツアーを行っていますが、キーボード奏者はマグナムのマーク・スタンウェイでした。あなたに声はかからなかったのでしょうか?

うん、フィルは変化を求めていたんだと思う。彼は同じところに留まることが出来ない人間だったんだ。俺はその前の年(1982年)のフィルの北欧ソロ・ツアーにもジミー・ベインと一緒に同行したし、1983年には呼ばれなかった。その頃の俺はデアーの原型となるプロジェクトの可能性を模索していたんだ。夏にはシン・リジィで“レディング・フェスティバル”とドイツのフェスに出演したり、フィルとヒューイ・ルイスのセッションにも参加したから、フィルとはしょっちゅう一緒にプレイしていたけどね。

後編記事ではシン・リジィとレネゲイド、そしてダレンの現在の“本業”であるデアーについて、さらに深く掘り下げて訊いてみたい。

【Darren Wharton's Renegade公式Facebookページ】

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【Dare公式サイト】

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音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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