エリック・セラ来日インタビュー/『グラン・ブルー』『レオン』『007』、ジャズ・ロックを語る
エリック・セラが2024年3月、ビルボードライブ東京で来日公演を行った。
フランスを代表する映画音楽作曲家として、世界的に絶大な支持を集めるエリック。『グラン・ブルー』(1988)『レオン』『ニキータ』(1990)『フィフス・エレメント』(1997)『ジャンヌ・ダルク』(1998)などリュック・ベッソン監督作品や、『007 ゴールデンアイ』(1995)といった作品の音楽を手がけたことで知られるが、今回はライヴ・パフォーマーとしての来日。彼はベーシストとしてステージに上がり、自ら率いる“RXRAグループ”とのライヴを繰り広げた。
(なお“RXRA”というネーミングについて、エリックは「“エール・イクス・エール・アー”を早口で読むと“エリック・セラ”となるんだ」と説明してくれた)
そのステージはエリックが手がけてきたシネマ・クラシックスを軸に、ジャズ/フュージョン的なアレンジを加えたもの。エミール・パリジャン(サックス)、ティエリー・エリエス(ピアノ)、ジョン・グランドキャンプ(ドラムス)、ポール・セペード(ギター)、ピエール・マルコー(パーカッション)、ロマン・ベルジン(キーボード)という実力派ミュージシャンが即興ソロを交えながらスリルに満ちた演奏を繰り広げる。エリック自らがミュージカル・ディレクターとして“監修”しながらも、プレイヤー達の自由度は高いものだ。観客は新しい生命を吹き込まれた名曲の数々に最初は戸惑いながら、卓越したミュージシャンシップにグイグイと引き込まれていき、ステージが終わる頃には誰もが満足げな笑顔を浮かべていた。
今回のインタビューは、ライヴの前に行われたもの。音楽家としてのエリックの原点とその哲学に迫る貴重なものとなった。
<ジャズ・スタイルのインプロヴィゼーションを加えたりして、スリル溢れるヴァージョンにしている>
●これまで日本は何回ぐらい訪れていますか?
初めて日本に来たのは1988年、『グラン・ブルー(グレート・ブルー)』のプロモーションだったんだ。それから一時期は作品ごとに日本を訪れるようになった。『フィフス・エレメント』や『007 ゴールデンアイ』『ジャンヌ・ダルク』でも招かれたよ。でもそれから15年ぐらい機会がなくて、その次は2016年にコンサートで日本に戻ってきた。おそらく10回から15回ぐらい来ているんじゃないかな。日本は美しく、素晴らしい文化のある国だ。この国に来ることはいつだって喜びだよ。
●あなたとリュック・ベッソンのデビュー作『最後の戦い』(1983)が日本で初公開されたのはフランスからやや遅れて1985年の“TAKARAファンタスティック映画祭”で、『エルム街の悪夢』『クリープショー』『デッド・ゾーン』とのオールナイト4本立てで上映されました。他の3作に負けないインパクトがあったことを覚えています。特に会話のない作品だったため、ひとつひとつの“音”が心に残るものでした。
『最後の戦い』のことを日本の映画ファンが好きでいてくれるのは、とても嬉しいよ。フランスでは誰も知らないんだ。
●前回、2016年の日本公演と今回ではどのような違いがあるでしょうか?
前回はスクリーンに映像を映したり、ヴィジュアル的な要素もあった。今回はよりオーディエンスとの距離が密接な、ミュージシャン達の音楽を楽しむライヴなんだ。私の書いた映画音楽を基にしながら、映画と同じようにプレイするのではなく、ジャズ・スタイルのインプロヴィゼーションを加えたりして、スリル溢れるヴァージョンにしているよ。例えば『アーサーとミニモイの不思議な国』(2008)のオリジナルはオーケストラによる演奏だけど、それをバンド編成でプレイしている。それでも曲を書いた私自身が根底から関わっているし、オリジナルの精神は失われていないんだ。
●あなたが手がけてきた映画音楽はオーケストラやエレクトロニック、『サブウェイ』ではロック/ポップ・テイストがあったりするので、バンドのミュージシャンにも多彩なスタイルが求められますね。
彼らにはオリジナルをコピーするのではなく、自分らしくプレイすることを求めている。でも彼らが優れたミュージシャンであることは事実だ。みんな世界的に知られるジャズ・プレイヤーだよ。ティエリー・エリエスはディーディー・ブリッジウォーターと何年も共演してきた、素晴らしいピアニストだ。
●ティエリーはマグマでプレイしたりエマーソン・レイク&パーマーのカヴァー・プロジェクトを行うなど、プログレッシヴ・ロックとも縁が深いミュージシャンですね。
その通りだ。多彩な才能を持ったミュージシャンだよ。そしてエミール・パリジャンはまるで他の惑星からやってきたようなソプラノ・サックスでここ数年、ヨーロッパのジャズ界で人気の若手スターだ。彼は現在の私のバンドに最初に加わったプレイヤーなんだ。
●そんな中でベースを弾くあなたにも高度なテクニックが求められるのでは?
私の名前を冠して、私が書いた曲をプレイするライヴだけど、ステージ上で最も目立たない存在なんだ。もちろんそれで構わない。私にはプレイヤーとしてのエゴはないからね。自分ではソロを取ることもない。世界一近い距離から凄腕のミュージシャン達の演奏を毎晩見られるのは最高の気分だよ。
●1980年代にジャック・イジュランのバックを務めていたそうですが、ベース歴は長いのですか?
うん、まず5歳の頃にギターを始めたんだ。次に16、17歳のときにドラムスも叩くようになって、それから18歳のときにベースを弾くようになった。それからずっと弾いているよ。今ではベースが最も“自分の楽器”と考えている。1980年代にはセッション・ベーシストとして50枚から60枚のアルバムで弾いた。最初の数枚ではギターを弾いたけど、残りはすべてベースだ。ギターを主に弾いていた頃は、ソロを弾きまくるギター・ヒーローになりたかったんだ。でもベースを始めて、その正反対に向かうようになった。音楽の土台を支えるプレイを志すようになったよ。
<ジャコ・パストリアスは“神”。最も理想に近いのはジェフ・ベック>
●どんなベーシストから影響を受けましたか?
私と同世代だったら、ジャコ・パストリアスから直接的・間接的に影響を受けていないベーシストはいないだろうね。ジミ・ヘンドリックスがあらゆるギタリストに崇拝されているのと同様に、ジャコはベースの“神”だよ。スタンリー・クラークも革命的なベーシストだったけど、その直後にジャコが現れたことで、影が薄くなってしまったと思う。それほど衝撃的だったんだ。私がフレットレス・ベースを弾いているのもジャコの影響だよ。
●あなたがセッション・ベーシストとしてプレイした作品で、最も誇りにしているものは?
うーん、いずれも自分はクリエイティヴな面で関わっていないし、これだ!というものはないんだよね。フランスのポップ歌手のバックを務めたもので、私の映画音楽のファンが聴いても感銘は受けないと思うよ。
●ピノ・パラディーノのようにセッション・ベーシストでありながらゲイリー・ニューマン『アイ、アサシン』(1982)とポール・ヤング『何も言わないで No Parlez』(1983)でのフレットレス・ベースで一躍知られるようになったプレイヤーもいますね。
ピノはスペシャルなベーシストだよ。音楽のキャラクターを生かしながら、個性的なフレットレスでさらに高めていく。世界中のアーティストが自分のアルバムに彼を参加させたがるのも納得出来るよ。
●ギターを弾いていた当時、どんなギタリストから影響を受けていましたか?
一番影響を受けたのはリッチー・ブラックモアだった。11歳から15歳ぐらいにかけて、ディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』(1972)のギターを全曲必死でコピーしたよ。それからジョン・マクラフリンを発見して、ジャズ・ロックに傾倒したんだ。難易度が高くて、音楽性の幅も広かったし、彼の音楽を経由してアラン・ホールズワースを聴くようになった。子供の頃から耳コピーをしてきたけど、彼のギター・ソロはどう弾けばいいか判らなかった。あるときパリの小さなジャズ・クラブで彼のライヴを見て気付いたんだ。彼の手の大きさが私の2倍ぐらいあるってね(笑)。それで彼はワイド・ストレッチをしていたんだ。でも、私にとって最も理想に近いギタリストはジェフ・ベックだろうね。『ブロウ・バイ・ブロウ』(1975)や『ワイヤード』(1976)でジャズとロックを融合させて、新たな次元に持っていく音楽性、ビューティフルなサウンド、すべてが素晴らしい。彼が亡くなる(2023年1月10日没)数ヶ月前、ライヴを見たんだ。ジェフはもちろん最高だったけど、正直ジョニー・デップは要らなかった。最初の45分ぐらいジェフがステージ中央で弾いていたのに、ジョニーが現れると、バックに回ってしまったんだ。彼のことは俳優として評価しているけど、ジェフ・ベックのギターを擬性にしてまで彼の歌を聴きたくないよ。ロック・スターみたいな態度を取って、ショックですらあったね。しかもそれがジェフを見る最後の機会になってしまったんだ。
●アラン・ホールズワースの作品ではどれがお気に入りでしたか?
アランの作品は友達にテープに録ってもらったんだ。だから何というアルバムかも知らないし、ジャケットもよく判らない。でもギターの凄さは伝わってきたよ。
●アラン・ホールズワースは1970年代にフランスを拠点とするゴングでプレイしていたこともありますが、そんなせいもあってフランスで人気が高かったのですか?
いや、彼はフランスでもメインストリーム市場での人気はなかったよ。でも一部のギター・フリークの間では神格化されていた。今回私がプレイする会場“ビルボード・ライブ”はかつてアランもステージに立ったことがあるそうで、光栄に思っているよ。
●1998年に出したアルバム『RXRA』はエレクトロ・ポップ色が濃いものでしたが、そのようなジャズ・ロック志向はあまり感じませんね?
うん、いろんな音楽が好きなんだ。ロックからポップ、ジャズ、クラシック、ワールド・ミュージック...あのアルバムは自分のポップ・サイドを表現したものだよ。いつか現在のRXRAグループでもアルバムを作りたいね。ただ、みんな実力のあるミュージシャンで、あちこちから声がかかるから、スケジュールを確保するのが大変なんだよ(溜息)。映画音楽をやっていて良かったと思うのは、どんな音楽スタイルでも出来ることだね。レコード会社もファンも関係なく、自分がやりたいことをやれるんだ。
<私に求められたのは“新世代の007像”だった>
●映画音楽の場合、ストーリーや映像に介入し過ぎてもいけないし、その一方で自分ならではの音楽性を表現しなければならないのが大変ですね。
映画音楽を書くときに大事なのは、たったひとつ。映画を良いものにすることなんだ。自分のエゴは必要ない。そのシーンとエモーションに合った曲を書くのが私の仕事だよ。それが私に満足を与えてくれるし、リュック・ベッソンも私の仕事に対する姿勢を知っているから、いつも声をかけてくれるんだ。
●リュック・ベッソンはあなたと仕事をするとき、どんなことを言ってきますか?
リュックはそれぞれのシーンでどんな音楽が必要か、どんな感情をかき立てるか、確固たるヴィジョンがあるんだ。でも彼はミュージシャンではないから、それを音楽にする術を持たない。それが私の役割なんだよ。彼と話しあうときは「こんな音楽が欲しい」と言われることはない。「このシーンで、この人物はこう感じている。それを観客に伝えたい」と言われるんだ。お互いにとって、とても幸運な関係だと思うね。リュックは“自分の音楽家”、そして私は“自分の映画監督”を見出すことが出来た。スティーヴン・スピルバーグとジョン・ウィリアムズ、セルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネ、ティム・バートンとダニー・エルフマン...リュックと私の関係も、それに近いと考えている。
●音楽を書くときは、映像を見ながら書いていますか?
そうだね。私の音楽はその映画用に書き下ろすものだし、映像、ストーリー、登場人物の描写などを深く知っておくことが重要なんだ。ダンス・パフォーマンスでは音楽に合わせて振り付けをするけど、映画音楽の場合はその逆に、映像や動作に音楽を乗せていくんだよ。事前に脚本を渡されて曲のイメージを浮かべることもあるけど、基本的に映像とシンクロナイズさせるようにしているよ。
●今“リュック・ベッソンはミュージシャンではない”とおっしゃっていましたが、彼と一緒にバンドを組んでいたことがあると読んだことがあります。
いや、リュックはバンドをやったことはないよ。何年も前、サックスをやってみようとしたけど、数時間で放り出してしまった(笑)。...もしかして誤解があるのかも知れない。私が15歳で初めてバンドを組んだとき、いとこのリュック・モンタンと一緒だったんだ。それを誰かがリュック・ベッソンと混同したのかもね。
●さっき挙げた映画監督と音楽家の関係もそうですが、『007シリーズ』とジョン・バリーの間にも強い関係がありました。『私を愛したスパイ』(1977)のマーヴィン・ハムリッシュも“ジョン・バリーと違う”と批判を浴びましたが、『007 ゴールデンアイ』(1997)の音楽を手がけた経験はどのようなものでしたか?
私に求められたのは“新世代の007像”だったんだ。5年ぶりのシリーズ新作で、ジェームズ・ボンド役をピアース・ブロスナンが演じる初の作品だったからね。もちろん数箇所でお馴染みの「ジェームズ・ボンドのテーマ」は使ったけど、これまでの『007』映画にはない音楽を求められた。私は子供の頃から『007シリーズ』のファンだったし、チャレンジを楽しんでいたよ。映画が公開されると、昔からの保守的なファンからバッシングを受けたけどね。「こんなの007の音楽じゃない」と言われたよ(苦笑)。でも、それこそが私に求められたものだったんだ。ジョン・バリーの真似をしても意味がないだろ?それに『007 ゴールデンアイ』のサウンドトラックCDはすごく売れたんだ。映画スコアのアルバムとしては異例の売れ行きだったんだよ。
●ティナ・ターナーが歌った主題歌「ゴールデンアイ」はU2のボノとジ・エッジが曲を提供しましたが、あなたにオファーは来なかったのですか?
そういう話もあったんだよ。その時期、私はソロ・アルバム『RXRA』の曲を書いている時期で、プロデューサーのルパート・ハインと作業していた。ルパートはアルバム『プライヴェート・ダンサー』(1984)などでティナ・ターナーと一緒にやっていたし、コネクションがあったんだ。それで新曲を『007』の制作陣に聴かせてみた。彼らは気に入っていたよ。でも、そこでボノとジ・エッジが介入してきたんだ。彼らはロック界のスーパースターだったし、ジャマイカにあるイアン・フレミングの別荘“ゴールデンアイ”でバカンスを過ごしたりしていた。プロモーションの観点から、制作陣が彼らを選ぶのは仕方なかったんだ。
●ティナの歌う「ゴールデンアイ」を聴いてどう思いましたか?
曲はまあ、良いんじゃないかな。ティナの歌声は凄いよ。シャーリー・バッシーが歌う「007 ゴールドフィンガー」(1964)と肩を並べる名演だ。ティナとアレサ・フランクリンはアメリカを代表するソウル歌手だね。残念ながらティナと会う機会はなかったんだ。ルパートは数年間フランスに住んでいたこともあって、私と親しい友人だったけど、紹介してもらえば良かった!...と今になって思うよ。
●あなたはどのようにして作曲のスタイルを確立しましたか?専門的な教育は受けましたか?
いや、完全に独学だよ。音楽はいつだって側にあって、子供の頃から自分の曲を書いてきたし、いつから書き始めたかすらも覚えていない。テニスを練習すればするほど上手になるのと同じで、曲も書くごとに上達していった。まずギターを始めて、それからドラムス、そしてベースを修得したんだ。プロとしては1980年代にジャック・イジュランのために数曲を書いて、その後リュックから声がかかったんだ。経験を積むごとに新しいことを学んで、次のプロジェクトに繋げていった。オーケストラ音楽をやるときもそうだった。どうやったらアレンジを出来るだろう?と試行錯誤をしたんだ。独学でやったことで遠回りはしたかも知れないけど、自分が求めるものを得ることは出来たよ。3年ぐらいかけて、ストラヴィンスキーの『火の鳥』(1910)『ペトルーシュカ』(1911)、ラヴェルの『ダフニスとクロエ』(1912)、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』(1894)、バルトークの『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』(1936)を研究した。ヘッドフォンで何度も何度も聴き返して、メロディや構成などについて学んだんだ。そうすることで、自分の頭の中でオーケストラ音楽が鳴るようになったんだ。初めて自分でオーケストラ音楽を書いたのが『アトランティス』(1991)だった。当時はシンセサイザーで曲をプログラムして、それを楽譜に起こしていた。今ではパソコンで“印刷”とクリックするだけで楽譜がプリントアウトされるけどね。ただ、それをそのまま使うことは出来ないから、イギリスに住むオーケストレーターのジェフリー・アレクサンダーに送って、オーケストラ譜にしてもらうんだ。彼とは『ジャンヌ・ダルク』以来の付き合いだけど、私と違って音楽理論に長けている。いろいろな編曲のアイディアも出してくれるし、頼りになる人だよ。
●RXRAグループのライヴでは各メンバーに楽譜を渡しますか?
いや、みんな映画のサウンドトラック・アルバムを聴いて、リハーサルでインプロヴィゼーションを交えながら完成させていく。楽譜は使わないよ。
●どんな映画音楽の作曲家から影響を受けましたか?
実はほとんど映画音楽からは影響を受けていないんだ。もちろんエンニオ・モリコーネやジョン・ウィリアムズの音楽は耳にしていたけど、それを自分がやるとは考えてもいなかった。リュックに「映画用に曲を書いてくれ」と言われて、音楽を仕事に出来ることに喜んだけど、どうすれば良いか判らなくて、困ったのを覚えているよ。彼の作品が成功を収めて、私もインタビューを受ける機会が増えた。それで今の君と同じ質問をされるようになった。「誰もいない」と答えると高慢だと思われないか、そして自分があまりに無知であることに罪悪感をおぼえたりもしたよ。それで映画音楽の作曲家たちについて学ぶうちに、彼らが私と同じだと知った。『スター・ウォーズ』(1977)を聴くと、ホルストの『惑星』(1918)からの影響が感じられる。ジョン・ウィリアムズは過去の映画音楽よりもクラシックからインスピレーションを得ていたんだ。私も映画音楽よりもロックやジャズ、クラシックなどを聴いていた。もちろん一流の映画音楽作曲家は一流のコンポーザーであると思うけどね。
●ソングライターだった御父上からはどのように影響を受けましたか?
父クロード・セラからは音楽に関するすべてのことを学んだよ。彼は本名のSerraでなく同じ発音のClaude Ceratというステージ・ネームを使っていたんだ。シャンソニエという、ステージでコメディ調のシャンソンをギターを弾きながら歌う歌手で、今でいえばスタンダップ・コメディアンに近い存在だった。ヒット曲はなかったけど、1960年代前半にはジャック・ブレル、クロード・フランソワ、ジョニー・アリデイなどのオープニング・アクトとして大会場で演奏したりした。当時フランスの3大シャンソニエはジャック・ボドワン(Jacques Bodoin)、レイモン・ドゥヴォス(Raymond Devos)そして父だったんだ。父は1990年代には引退していて、『レオン』(1994)のサウンドトラック・アルバムで“エグゼキュティヴ・プロデューサー”としてクレジットされているのは、私の制作プロダクションの仕事を手伝ってくれたからだった。音楽面では関わっていないよ。
●日本公演の後の予定を教えて下さい。
リュックの最新作『DOGMAN ドッグマン』(2023)は世界中で公開されて、ヒットを記録している。それから3月末にNetflixで配信される『恐怖の報酬』リメイク版の音楽を書いたんだ。オリジナル(1954)とはかなり異なった仕上がりになっているよ。それからフランスで数回のコンサートが予定されている。ミケランジェロ・ロコントというイタリアのロック/ポップ・シンガーのアルバムのプロデュースもする。彼は『ロックオペラ モーツァルト』(2009年初演)でモーツァルトを演じている、素晴らしいシンガーだよ。『フィフス・エレメント』のDolby Atmosミックスの監修もすることになっているし、忙しい日々を楽しんでいるところだ。ぜひまた近いうちに次の映画作品のプロモーション、それともライヴで日本に戻ってきたいね。
Special thanks to Billboard Live
【過去記事】
『グラン・ブルー』『レオン』/フランス映画音楽を代表する作曲家エリック・セラ来日ライヴが実現
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a82b9930df202156d4ad2d65930814c386ef848e