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セクハラで改易された、織田信長の一族の津田信成とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 連日のようにセクハラが報道されているが、昔の古い感覚ではアウトなので注意しなくてはならない。実は、織田信長の一族の津田信成もセクハラで改易されたので、詳しく確認することにしよう。

 津田氏は織田氏の一族で、津田盛月(1534~1593)は、織田信長に仕えていた。盛月の次男が信成(1562~1645)だった。そして、姓は異なるが、盛月の兄が中川重政である。

 重政は領地の問題をめぐって、柴田勝家と争っていた。その際、盛月が勝家の代官を成敗したため、兄の重政ともども織田家から追放されたのである。

 やがて、信長は盛月が羽柴(豊臣)秀吉に仕え、「外峯四郎左衛門」と改名したことを知った。盛月に従って、信成も秀吉に仕えていたのである。

 しかし、天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死したので、盛月と信成は成敗されることなく、辛うじて命拾いしたのである(『武家事紀』)。

 天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いが勃発すると、盛月は秀吉の命に従って出陣し、大いに軍功を挙げた。その直後、徳川家康と朝日姫(秀吉の妹)の縁談がまとまるが、その取次をしたのは蜂須賀正勝と盛月だったという(『川角太閤記』)。

 文禄2年(1593)、盛月が亡くなったので、信成が家督を継承した。実は、信成の兄の信任が家督を継いでいたが、京都で千人斬りをした罪に問われ、改易されてしまったのである。

 もともと、信任は山城三牧(京都府久御山町)に35,000石を領していたが、信成は13,000石に減らされた。慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、信成は東軍の一員として出陣したのである。

 慶長12年(1607)6月、信成は稲葉通重(一鉄の孫)らは、祇園に繰り出した。そのとき、彫金家で豪商の後藤光乗・長乗、同じく豪商の茶屋四郎次郎らの一行を目にした。

 すると、信成は長乗の妻が美しかったこともあり、後藤氏ら一行の女性をむりやり茶屋に連れ込み、酒宴を催したのである。これは、まさしくセクハラである。

 被害を受けた後藤氏は、ただちに家康に事の次第を訴えた。当時、後藤光乗、茶屋四郎次郎は単なる商人ではなく、家康のブレーン的な存在だった。

 当然、家康は激怒し、信成と通重は改易という厳しい処分を受けたのである。通重は常陸筑波(茨城県つくば市)に、信成は下野足利(栃木県足利市)に流された。

 その後、信成は出家して道慶と名乗ったが、正保2年(1645)8月に足利の地で亡くなったのである。信長の一族としては、あまりにお粗末な最期だったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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