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関ヶ原合戦後、運良く死を免れた石田三成の子の重成と佐吉

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成像。(写真:イメージマート)

 悲惨な目に遭っても、運良く生き長らえることは、今でもあることだ。関ヶ原合戦において、西軍に与した石田三成は斬首されたが、残された子らは厳しい処分を免れ、生き長らえた。三成の子のうち、重成と佐吉のその後を追うことにしよう。

 次男の重成が誕生したのは、天正17年(1589)といわれている。母は、皎月院(宇多頼忠の娘)という。妹の辰姫は、慶長15年(1610)に津軽為信の三男・信枚のもとに嫁いだ。石田氏と津軽氏の関係は深かったのである。

 成長した重成は、豊臣秀頼の小姓として仕えた。同じく秀頼の小姓として仕えたのが津軽信建であった。しかし、関ヶ原合戦で西軍が敗北を喫し、三成が捕らえられて処刑されると、重成の身辺にも危機が迫った。西軍の首謀者が三成だったのだから、子の重成に累が及ぶのは当然のことである。

 この重成の危機を救ったのが、同僚の信建だった。信建は重成を伴って大坂城を脱出すると、津軽(青森県つがる市)を目指したのである。

 以後、津軽で匿われた重成は、徳川家康の追及を逃れるため、名を杉山源吾と改めて潜伏生活を送ったという。異説によると、杉山八兵衛と名を変えて津軽家に家人として仕官し、侍大将を務めたともいわれている。

 その後、津軽氏の庇護下にあった重成が、どのような生活を送っていたかは判然としない。一説によると、重成は津軽藩の忍者を統括していたとも伝わる。慶長15年(1610)に亡くなったといわれているが、寛永18年(1641)まで生き延びたという説もある。

 また、藤堂高虎に仕え伊勢国で死去したという記録もあるが、詳細は不明である。重成には一子があり、名を吉成といった。吉成とその子孫は、代々弘前藩に仕えた。

 三成の三男・佐吉は佐和山城を脱出し、石田家に仕えた津田清幽に伴われて、家康のもとに出頭した。その際には、攻め込んできた東軍の脇坂隊の村瀬忠兵衛を捕まえ、彼を盾にしながら逃げてきたと伝わっている。

 家康は佐吉を許したが、津田清幽に命じて、高野山(和歌山県高野町)の僧侶・木食応其のもとで出家させた。極めて寛大な措置だった。応其は佐吉に清幽の恩義を忘れさせないよう、「深長坊清幽」と名付け、薬王寺(山梨県市川三郷町)に送り込んだのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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