【光る君へ】藤原道兼の役割は本当に「汚れ仕事」だったのか
今回のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、京都市中に疫病が蔓延する模様が描かれていた。藤原道長は兄で関白の道隆に対策を進言したが無視されたので、自ら疫病の様子を見に行こうとした。
しかし、もう一人の兄の道兼から「汚れ仕事はオレに任せろ」といわれてしまう。その点を考えてみよう。
正暦5年(994)から翌年にかけて、疫病が京都市中を襲った。疫病とは天然痘と考えられるが、当時は特効薬がなく死病だった。せいぜい神仏に頼るしかなかった時代である。当時の記録によると、亡くなった人々は放置され、死臭が漂っていたという。措置なしというのが現状だった。
ドラマの中では、「まひろ(紫式部)」のかわいがっていた子も疫病に罹り、なくなってしまう。居ても立ってもいられなくなった「まひろ(紫式部)」は、疫病に罹った人を介抱しようとした。
しかし、当時の感覚からすれば、医学的な知見がなかったので、天然痘のような死病に罹った人を助けようとしたとは思えない。それゆえ、わざわざ隔離したのではないか。
ましてや、道兼や道長のような貴人が庶民を気遣い、わざわざ現状視察をしたとは考えにくい。やはり、当時の記録によると、その役割は検非違使以下の役人に任されたようである。
検非違使にできることは限られており、疫病に罹った人を1ヵ所に集めるのがせいぜいだったといえよう。死体の処理は、「ケガレ」の問題もあり、放置するより手がなかったのではないか。
ドラマの中で、道兼の役割は「汚れ仕事」だった。それは、父の兼家からも命じられていた。むろん、それはフィクションであり、兼家がそういうことを言ったのか不明である。
寛和2年(986)、道兼は花山天皇を内裏から連れ出し、出家させたときに貢献した。「自分も出家する」と嘘をついたという逸話さえある。これが「汚れ仕事」であり、道兼の栄達のきっかけになった。
疫病の影響は深刻で、長徳元年(995)に関白の藤原道隆が重い病に罹り、そのまま亡くなった。道隆の死後、弟の道兼が後継者として関白になったものの、わずか10日間の在任で亡くなった。あまりに在任期間が短かったので、「七日関白」と称されたという。
道兼の生涯をたどるうえで、後世に成った『大鏡』、『栄花物語』を読むとおもしろいが、やや荒唐無稽に思える話もある。したがって、ドラマのとおり道兼が「汚れ仕事」に徹していたと考えるのは、再考の余地があるだろう。