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ついに父を乗り越えられなかった! 織田信長の3人の息子たち

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 岐阜市は、織田信長の居城・岐阜城がある金華山一帯を歴史公園として整備するという。こちら。信長には息子がいたが、いずれも父を乗り越えて、天下を取ることができなかった。そのうち3人を紹介することにしよう。

◎織田信忠(1557~1582)

 織田信忠は、信長の長男として誕生した。元亀3年(1572)に元服すると、同年には父とともに近江に出陣し、浅井長政との戦いで初陣を果たした。

 以後も各地を転戦して軍功を挙げると、天正3年(1575)に父から織田家の家督を譲られ、岐阜城(岐阜市)に本拠を構えたのである。

 天正10年(1582)5月、信忠は父とともに上洛したが、これが不幸を招くことになった。その直後、信長は宿所の本能寺を明智光秀に急襲されて自害した。

 信忠は二条御所で光秀の軍勢と戦ったが、やがて不利を悟り自害して果てたのである。この場合、父を乗り越える云々よりも、その前に亡くなるという不幸だった。

◎織田信雄(1558~1630)

 織田信雄は、信長の次男として誕生した。永禄12年(1569)、信長が伊勢に侵攻し、北畠具教・具房父子を攻撃した際、和睦の条件として信雄を具房の養子として送り込んだ。

 本能寺の変後、信雄は尾張、伊賀、南伊勢に約100万石を領したが、天正12年(1584)に羽柴(豊臣)秀吉に反旗を翻したのである。

 ところが、信雄の挙兵は失敗に終わり、秀吉の軍門に降った。とはいえ、信雄は秀吉のもとで厚遇されたが、天正18年(1590)の小田原征伐後の転封を拒否し、改易という厳しい処分を受けた。

 出家した信雄は、徳川家康の仲介もあって、秀吉の御伽衆として再仕官することになったのである。

◎織田信孝(1558~1583)

 織田信孝は、信長の三男として誕生した。永禄11年(1568)、伊勢侵攻を目論んでいた信長によって、神戸具盛の養子として送り込まれた。

 本能寺の変の直前、信孝は信長の命により、四国に渡海し土佐の長宗我部氏を討つことになっていた。しかし、信長が横死したこともあって、四国渡海は中止になったのである。

 本能寺の変後の清須会議の決定に不満を持った信孝は、志を同じくする柴田勝家と結んで羽柴(豊臣)秀吉に反旗を翻した。ところが、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れ、信孝は居城の岐阜城を開城し、秀吉に降参した。

 その直後、信孝は知多半島の野間にある大御堂寺に幽閉され、自害を命じられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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