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豊臣秀吉は決して明るくひょうきんではなかった。秀吉が惨殺した豊臣秀次ら3人の身内

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(写真:イメージマート)

 豊臣秀吉にまつわる古文書が発見され、大いに注目を集めている。こちら。ドラマの中の秀吉は、明るくひょうきんに描かれているが、実際はそうではなく残酷だった。秀吉は養子の秀次だけでなく、名も知れぬ兄弟姉妹を惨殺したので、紹介することにしよう。

◎豊臣秀次(1568~1595)

 秀吉は後継者たる男子に恵まれなかったので、養子として秀次を迎えた。天正18年(1590)12月、秀次は秀吉から関白の座を受け継ぎ、あわせて豊臣氏の氏長者となった。しかし、文禄2年(1593)8月、秀吉に待望の男子(のちの秀頼)が誕生した。その2年後、秀次に謀反の嫌疑が持ち上がたのである。

 その結果、文禄4年(1595)7月、秀次は秀吉から自害を命じられ、高野山で切腹した。秀次の死後、秀吉は秀次の妻女ら縁者を根絶やしにすべく、皆殺しにしたのである。秀吉が秀次に死を命じた理由は諸説あるが、指示命令系統が二分化したこと、秀次が秀吉の意向に沿わないことが多かったのではないかと考えられる。

◎名も知れぬ兄弟

 天正15年(1587)、伊勢国から秀吉の兄弟(兄か弟かは不明)と称する若者が大坂城に姿をあらわした。秀吉は母の大政所に対して、その若者を知っているか問い質すと、「知らない」との回答を得た。おそらく、大政所の子だったのだろうが、それではまずいので「知らない」と答えたのだろう。

 若者は嘘をついたことになったので、秀吉は許さなかった。秀吉は若者を縛り上げるように命じると、ただちに斬首したのである。首は街道筋に晒された。これはフロイスの『日本史』に書かれた話であるが、秀吉からすれば自分が知らない兄弟がいると不都合なので、処分することを決断したのである。

◎名も知れぬ姉妹

 その後、秀吉は尾張国に貧しい農民の姉妹(姉か妹かは不明)がいることを知った。秀吉はそういう貧しい身分の姉妹がいるとまずいので、姉妹を都に呼び寄せるため「自分の姉妹として認める。相応の待遇をする」と嘘を言った。事情を知らない姉妹は、あまり気が進まなかったが上洛することにした。

 姉妹は自分に幸運が訪れたと思い、身内の女性とともに上洛した。すると、待ち構えていた秀吉の配下の者が姉妹を捕らえ、付き添いの女性ともども斬首したのである。こちらも、フロイスの『日本史』に書かれたものである。秀吉は自分が知らない兄弟姉妹の存在を邪魔だと考え、根絶やしにしたのである。

◎まとめ

 秀吉は農民の出身で、武士になっても譜代の家臣がいなかった。ゆえに身内の存在が重要だったのだが、自分にとって都合の悪い者は別だった。秀次は反りが合わなくなったので死に追いやり、兄弟姉妹はその存在も知らず、のちに厄介になると困るので殺害した。秀吉は、意外と冷酷だったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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