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北条氏政・氏直父子が豊臣秀吉の上洛要請に従い、氏規を遣わした背景を考えてみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉がついに北条氏政・氏直父子の討伐を決意した。そこに至るまでには紆余曲折があったものの、氏政・氏直父子が上洛に応じ、氏規を派遣した理由を考えることにしよう。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死すると、たちまち配下の秀吉が台頭し、清須会議で政権の主導権を握った。その後、ライバルの柴田勝家らを討伐した。

 続けて有力者の織田信雄と徳川家康を臣従させると、さらに四国の長宗我部元親、九州の島津義久を屈服させた。残るは関東に覇を唱えた北条氏、そして東北の諸大名だけになった。

 天正16年(1588)4月、聚楽第に後陽成天皇の行幸があった。聚楽第には東海以西の諸大名がことごとく訪問し、秀吉に起請文を捧げて忠節を誓った。

 しかし、そこには北条氏の姿はなかった。すでに、北条氏との和睦交渉ははじまっていたが、なかなか進展しなかったので、豊臣政権内部では「北条氏を討つべし」と強硬な主張すらあった。

 同年5月、家康は氏政・氏直父子に起請文を送り、①秀吉の前で北条氏を悪しざまに言わず、また北条領国を望まないこと、②5月中に氏政の兄弟衆を上洛させること、③納得するならば家康の娘を与えることを誓約し、秀吉への臣従を促した。

 ところが、北条氏の家中では、氏直と氏規が上洛して融和を求める一方、氏政・氏照兄弟は上洛を拒否する強硬な態度を取った。強硬派は軍備を固め、臨戦態勢を整えるありさまだった。

 しかし、同年閏5月になると、徐々に強硬派の態度も和らぎ、上洛に応じる姿勢を見せるようになった。その後、家康は北条氏家臣の朝比奈泰勝に書状を送り、氏規の上洛を促した。こうして8月になり、氏規の上洛が実現したのである。

 秀吉は氏規が上洛したので、北条氏が臣従を誓ったものと考え、すぐに領国の画定を行うことにした。領土画定で問題になったのは、かねて真田氏が領有していた上野国沼田領(群馬県沼田市)である。

 豊臣政権は、北条方にその3分の2を城領として与え、残る3分の1を真田氏に安堵した。真田氏の減少した所領については、家康が補償することになった。

 裁定の結果について、北条氏は不満を抱いていたが、翌天正17年(1589)6月になって従う旨を通知し、その半年後には氏政が上洛する運びとなった。こうして沼田領は豊臣政権の案に従って割譲され、あとは氏政の上洛を待つばかりだったのである。

 ドラマの中では、秀吉が氏政や氏直でなく、家臣の氏規が上洛したことに不満を持ったようだが、実際はそうではない。

 当時の作法にも、当然ながら手順が必要で、まずは家臣が交渉に臨むのが当然のことだった。しかし、事態は急転直下し、秀吉は北条氏の討伐を決意した。その辺りは改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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