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石川数正の出奔により、豊臣秀吉に徳川家康を討つというスイッチが入ったわけ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、上洛しようとしない徳川家康への豊臣秀吉のイライラが頂点に達していた。実際には、石川数正が出奔したので、秀吉は家康を討とうとした。その辺りを検討しよう。

 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、家康と織田信雄は秀吉を相手にして、当初は戦いを有利に進めた。しかし、秀吉はじわじわと攻勢を強めたので、信雄は秀吉に臣従することを余儀なくされた。

 しかし、その事実は家康にあらかじめ知らされていなかった。その後、徳川家中では秀吉への対応を協議していたが、翌年11月13日に秀吉との融和を説いていた数正が出奔した。

 一連の状況を受けて、秀吉は家康の討伐を決意した。おそらく秀吉は、徳川家の混乱した状況をチャンスと考え、一気に叩こうと考えたのだろう。一方の家康も、秀吉の攻撃に備えて準備を進めた。再び両者の間に火花が散ったのである。

 11月19日、秀吉は真田昌幸に書状を送った(「松丸憲正氏所蔵文書」)。秀吉は数正が出奔してきたことに触れ、家康が天下(=秀吉)に対して事を構えていることを伝えた。

 そこで、秀吉は昌幸に家康討伐の旨を伝え、今年はもう時間がないので、翌天正14年(1586)1月15日に出陣すると伝えた。そして、信濃、甲斐については、小笠原貞慶と木曽義昌と相談し、抜かりがないように指示をしている。

 最近の研究によると、「天下」とは畿内を意味するとされてきたが、この書状で「天下に対し」という箇所は、明らかに秀吉を指している。

 つまり、この頃から秀吉は、「天下」を自分自身に重ね合わせているのであるが、「天下」が相変わらず畿内を指しているのか、それとも日本全国に変わったのかは検討を要する。

 さらに11月20日、秀吉は一柳直末に書状を送った(「一柳家文書」)。秀吉は数正が徳川家から出奔したことを告げ、その件で徳川方から11月17日に書状が来て懇望されたが、同意しなかったという。

 冒頭には、徳川方から供出される人質の返事が遅れている件も書かれているので、数正のことも相まって、何らかの要望があったのだろう。

 しかし、秀吉はそれを許さず、翌天正14年(1586)1月15日に出陣するので、星崎(名古屋市南区)に軍勢を送り込み、三河の情勢を探るように伝えた。秀吉に臣従した信雄の家臣らも星崎に赴いた(『家忠日記』)。家康が苦境に立たされたのは明らかだった。

 12月2日以降、松平家忠は三河東部の城の普請に着手した(『家忠日記』)。また、三河の一向宗を懐柔したことも注目されるだろう。かつては敵対関係にあったが、秀吉に対抗するため手を結んだのである。

 家康は人質問題だけでなく、数正が家中を出奔し、秀吉のもとに走ったので苦境に陥った。そこで、秀吉は弱体化した徳川家中の様子を見逃すことなく、攻勢を強めたということになろう。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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