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徳川家康が亡き妻の瀬名に「天下人になり、戦のない世を作る」と誓ったのは、ホント???

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康は亡き妻の瀬名に「天下人になり、戦のない世を作る」と誓ったという場面があったが、それが事実なのか考えることにしよう。

 徳川家康は小牧・長久手の戦いの緒戦で豊臣秀吉に勝利したものの、その後の政治的な駆け引きでは敗北した。

 もともと盟友の織田信雄が秀吉に兵を挙げたのだが、肝心の信雄が先に秀吉に屈してしまった。おまけに、重臣の石川数正が徳川家中から出奔したので、家康は窮地に陥ってしまったのである。

 家康は家臣と秀吉にどう対処すべきか喧々囂々の議論をする中で、亡き妻の瀬名に「天下人になり、戦のない世を作る」と誓ったことを思い出した。

 同じ頃、家康は妻として迎えた朝日姫(秀吉の妹)が両家の融和に心を砕いていることを知る。こうして家康は、秀吉の要求に応じて、上洛したということになろう。果たして、これは事実なのだろうか?

 家康が瀬名を死に追いやったのは、天正7年(1579)8月のことである。当時、信康(家康の子)が岡崎城(愛知県岡崎市)主を務め、瀬名も岡崎城にいた。

 一説によると、家康は瀬名と不仲だったという。当時、家康は織田信長に味方して、甲斐の武田勝頼と戦っていた。しかし、勝頼はなかなかの難敵で、戦いが膠着状態にあったのは事実である。

 そのような状況下で、信康と瀬名は武田氏との連携を模索していた。この動きを知った家康は、徳川家中の分裂を防ぐため、自らの意志で2人を処分した。決して信長から命じられたわけではない。

 ところが、後世の史料は、反逆者である信康は瀬名について、何一つ良いことを書いていない。徳川家からすれば、2人の存在は黒歴史なのだから、いたしかたないだろう。

 しかし、大河ドラマでは、瀬名が「慈愛の国を作る。平和な世を作る」という考えのもと、独断により子の信康とともに武田氏との連携を図り、しかも今川氏真をも巻き込んで、好戦的な信長を倒そうとした。

 この瀬名の目論見は信長に露見し、信康ともども自害に追い込まれるというストーリーに改変されていた。今回のドラマの中の家康は、瀬名の遺言を思い出し、上洛を決意したということになろう。

 とはいえ、徳川家康が亡き妻の瀬名に「天下人になり、戦のない世を作る」と誓ったとはいうのは、やはりフィクションに過ぎず、現実的な考えとは思えない。そういう情緒的な「お花畑」のような考えで、家康は上洛を決意したのではないだろう。

 家康は秀吉の専横を許せなかったので、信雄の誘いに応じて挙兵した。しかし、秀吉のほうが1枚も二枚も上手で、気が付くと家康・信雄包囲網が形成されていた。それを感じ取った信雄は、先に秀吉に臣従した。

 やがて、圧力に抗しきれなくなった家康は、政治的な判断で上洛し、秀吉に臣従するしかないと考えたのだろう。まさしく苦渋の決断だったのだ。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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