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石川数正が豊臣秀吉のもとに走った理由について、トンデモ説を検討する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 前々回の「どうする家康」では、石川数正が徳川家から出奔し、豊臣秀吉のもとに走る場面があった。その理由については諸説あるので、検討することにしよう。

 天正13年(1585)11月、石川数正は突如として徳川家中から出奔し、まだ対立状況にあった秀吉のもとに走った。数正は徳川家の重臣だったので、家康の驚きぶりは想像するに余りある。

 重臣だった数正は徳川家の機密情報を知っていただろうから、以後、家康は対策を余儀なくされた。ところで、数正が出奔した理由は諸説あるが、いったいどのような見解があるのか検討してみよう。

 数正は徳川家を代表して、豊臣家の交渉役を務めていた。数正は何度か秀吉に面会するうちに、恩賞をちらつかされて豊臣家中に身を投じるよう誘われたという説がある。

 しかし、数正は豊臣家の一員となった後、大幅に加増されたというたしかな史料がなく、一説によると、河内国に8万石を与えられたという。しかし、数正自身の動向もあまりわからないので、この説の信憑性が疑われる。

 似たような説もある。数正が秀吉との交渉に臨んだところ、秀吉から豊臣家に来れば、家康との戦いは中止するといわれたという説である。

 家康の身を案じた数正は、本意ではなかったが、豊臣家中に身を投じたということになろう。とはいえ、考え方が短絡過ぎて、とても信を置くことができない。

 数正は家康の嫡男・信康の後見人だったが、天正7年(1579)に信康は謀反の嫌疑を掛けられ、切腹して果てた。結果、数正は家康との関係が悪化したという。さらに、数正ら信康を支えた岡崎衆は凋落し、代わりに酒井忠次ら浜松衆が台頭した。

 こうして数正の立場がなくなり、出奔せざるを得なくなったという。一見すると理に適っているように思えるが、なぜ出奔までに6年も掛かったのかという疑問が残る。なぜ、秀吉と対立したときかという、タイミングの問題もある。

 ほかにも秀吉と何度か面会するうちに、家康よりも力量が上だと感じ、乗り換えたという説もある。あるいは、豊臣家と徳川家が対立した状況下で、家康と相談したうえ、徳川家を守るため、あえて豊臣家に自ら身を投じることにより、戦争を回避したとの説もある。いずれももっともらしいが、決め手に欠ける。

 近年、有力視されているのは、豊臣家と和睦を結ぶ過程において、数正ら和睦派と徹底抗戦派に家中が分裂し、数正の立場が不利になったので出奔せざるを得なくなったとの説である。

 タイミングと出奔した先(数正を庇護してくれるのは、有力者の秀吉以外にいない)を考慮すると、この説が妥当ではないかと考えられる。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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