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徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の和睦が成立! 家康と信雄にとって屈辱的だった条件とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉。(提供:イメージマート)

 今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉が和睦交渉を締結したが、その条件は家康と信雄に不利だった、詳しく確認することにしよう。

 天正12年(1584)11月13日、ついに秀吉は家康・信雄から懇望されて和睦を結んだ。懇望というのだから、立場的に秀吉が優位だった。

 その概要は、同日付の秀吉書状(伊木忠次宛)に書かれている(「伊木文書」)。全体は、6ヵ条に分かれており、概要は以下のとおりである。

 1条目。秀吉は伊勢の長島、桑名(以上、三重県桑名市)の両城に攻め込み、付城を数ヵ所に築いたうえで、縄生城(同朝日町)で越年しようとした。

 信雄は長島が今にも落城しそうなので、和睦を懇望した。秀吉は、その申し出に応じたということである。

 2条目。人質として、信雄の実子、織田長益の実子、そして滝川雄利、中川定成、佐久間正勝、土方雄良、松庵以下については、いずれも実子または母親を秀吉に供出することになった。加えて、誓紙を秀吉に差し出した。

 なお、『顕如証人貝塚御座所日記』の記述によると、信雄が人質として供出したのは男子たる実子ではなく、妹の岡崎殿だったという。

 3条目。北伊勢四郡を信雄に渡し、今回拵えた城については、敵味方ともに破却することにした。裏を返せば、信雄がもともと領有していた南伊勢と伊賀国は秀吉に収公されたことになろう。和睦とはいえ、条件は信雄にとってかなり厳しいものになっていた。

 4条目。尾張国では犬山(愛知県犬山市)、河田(同一宮市)の城に軍勢を置き、そのほか新しく作った城については、敵味方を問わず破却する。城の破却は3条目と同じで、これは戦争をしない証でもあった。

 5条目。家康もまた、和睦を懇望してきた。しかし、この度は信雄を自陣に引き入れ、秀吉に対して重々不届きがあった。そこで、三河国に攻め込んで遺恨を晴らそうとしたところ、家康と石川数正から人質が供出され、何事も秀吉次第であると申し入れてきた。

 秀吉は家康に対して深い恨みがあるので、未だ思案が付かなかった。しかし、慈悲をもって秀吉は許したという。

 6条目。和睦が成れば、近日中に帰陣すると結ばれている。この事情を見る限り、音を上げたのは信雄と家康だったといえる。

 秀吉がいったん和睦を断ったのは、自らが優位の立場にあったので、より有利な条件で和睦を結ぼうとしたのはたしかである。秀吉のほうが家康らより、1枚も2枚も上手だったのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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