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和睦交渉の決裂後、戦闘を継続した徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の動きを見る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の和睦交渉を進めていたが、実際にはなかなか締結に至らなかった。和睦の決裂後、両者はどのような行動をしていたのか考えておこう。

 天正12年(1584)9月、家康・信雄は秀吉と和睦交渉を行ったが、最終的に決裂した。秀吉は和睦交渉が決裂したものの、諸将などに戦勝が間近であると伝えている(「多賀神社文書」)。

 そうした情報が誤って伝わったのか、千利休は9月6日に和睦が成立したと、福寿院宛の書状に記している(「西教寺文書」)。「秀吉御存分」と書かれているので、秀吉の思うままになったと思ったようだ。

 秀吉と対抗していた根来寺(和歌山県岩出市)の杉之坊聖算は土佐の香宗我部親泰に書状を送り、信雄と家康が有利に運んでいるから安心するように伝え、引き続きの支援を要請した(「土佐国古文叢」)。

 こちらは、根来寺が秀吉に抵抗していたので、信雄と家康が有利と逆のことを書いている。いずれにしても、和睦決裂の真相はよくわからない。

 9月16日、秀吉は前田利家に書状を送り、今後の予定を知らせた(「尊経閣古文書纂当家文書」)。

 秀吉は、下奈良(愛知県大口町)、宮後(同江南市)、河田(同一宮市)に砦を普請し、2・3日中に兵糧・玉薬と軍勢4・5千人ほどを入れ置き、同月25・6日までには岐阜に兵を引き上げると伝えた。その翌日、秀吉は兵を引き上げ、河田城に至ったことがわかる(「吉村文書」など)。

 9月27日に家康が清須に入ると、2日後の29日に秀吉は大坂に戻った(『家忠日記』『多聞院日記』)。その後も両者の緊張関係は続き、城の普請や修築に余念がなく、諸大名との連絡も緊密に取った。和睦は決裂したものの、互いに負けを認めず、機をうかがっていたのである。

 両者にらみ合いの状況が続いたが、最初に動いたのは秀吉である。10月24日、秀吉は近江国土山(滋賀県甲賀市)に着陣し、25日に伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)に出陣することを池田照政の家臣・片桐氏に知らせた(「黄薇古簡集」)。

 そして、軍勢を城々に召し寄せ、番をすることを命じた。その後、秀吉は尾張に攻め込む予定だった。10月29日、家康は秀吉が出陣するとの情報を受けて、信雄の家臣・飯田氏に尾張出陣を伝えたのである(「譜牒余録」)。

 再び両者の戦いが開始されたが、秀吉は和睦を模索していた。10月24日、秀吉は桑名に攻め込み、ことごとく焼き払うと、刈田(生育中の稲などを刈ること)を申し付けた。

 そして、砦を4・5ヵ所普請したら、帰陣するという。そのうえで、秀吉は本願寺の坊官・下間氏に対して、信雄・家康との執り成しを依頼した(「下間文書」)。執り成しとは、和睦のことを意味しよう。

 しかし、家康は北伊勢への出陣を計画していた。11月9日には清須に出馬し(『家忠日記』)、翌11月10日には秀吉方の長久保城(岐阜県海津市)を落とした(「吉村文書」)。同じ頃、桑名を攻略した秀吉は、信雄から和睦の申し出があったので、応じることを検討していた(「岡本栄之氏所蔵文書」)。

 両者は交戦を続けながらも、常に和睦を模索していたようだ。こうして互いに戦闘を継続していたが、ついに両者は和睦を結ぶことになったのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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