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大河ドラマ「どうする家康」ではほぼスルーされた、第一次上田城合戦と真田昌幸

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上田城址の桜。(写真:イメージマート)

 今回の「どうする家康」では、注目の真田昌幸が登場したが、肝心の第一次上田城合戦はほぼスルーされたので、取り上げて解説することにしよう。

 天正13年(1585)、徳川家康は武田氏遺領を有効に分配すべく、北条氏との和睦を検討していた。その際、北条氏が和睦の条件として要求したのは、昌幸の沼田城(群馬県沼田市)を明け渡すことだった。

 家康は沼田城の明け渡しを昌幸に命じたが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否した。さらに、昌幸は越後の上杉景勝と通じ、家康との関係を断ったのである。

 昌幸の裏切りを知った家康は真田討伐を決意し、真田氏の本拠・上田城に向けて、家臣の鳥居元忠らが率いる精鋭の約7000の兵を派遣した。

 一方、上田城で迎え撃つ昌幸の軍勢は、わずか約2000といわれている(兵の数は諸説あり)。真田方が劣勢なのは、誰が見ても明らかだった。

 真田方は上田城に昌幸、支城の戸石城(長野県上田市)に長男の信幸(信之)がそれぞれ籠った。従兄弟の矢沢頼康は上杉氏の援軍と共に、支城の矢沢城(同上)に立て籠もったのである。

 同年閏8月2日の上田城外の国分寺の戦いでは、真田方が徳川方の猛攻を凌ぎ退けることに成功した。以下、戦いの流れを詳しく確認しよう。

 真田勢は徳川勢と信濃国分寺近くで、小競り合いをしながら退却。昌幸は甲冑もまとわず、櫓の上で家臣と碁を打ち、城門を閉ざしていた。真田勢が抵抗しないので、徳川勢は一気に城内になだれ込んだ。

 しかし、昌幸は周到な準備をして、徳川勢を待ち構えていた。上田城下には敵の動きを封じるため、千鳥掛け(互い違い)の柵を設置していた。また、約3千の武装農民を複雑な並びの町家・山野に配置し、伏兵としていたという。

 徳川勢は鬨の声を上げて大手門を突破しようとすると、昌幸は隠しておいた丸太を落とさせ、徳川勢に弓・鉄砲を放った。さらに強風に乗せて上田城の町家に火を放つと、真田方の武装した農民が一斉に徳川勢を攻撃した。

 徳川軍が後退する際には、真田方から追撃され、戸石城の信幸が加勢に及んだので壊滅。撤退する徳川軍は千鳥掛けの柵に引っかかり、右往左往の状況に陥った。さらに矢沢勢が追撃戦に加わり、昌幸が、神川に仕掛けた罠により、多数の将兵が溺死した。

 勝因は、真田方の地の利を活かした戦法だった。信幸は沼田方面の家臣に対し、国分寺付近で敵1300余りを討ち取った旨を伝えた。その後、家康は真田氏に味方した丸子氏が籠る丸子城(長野県上田市)の戦いでも、相変わらず苦戦を強いられた。同城は要害として知られ、さらに頑強に抵抗したので攻略できなかった。

 以後、20日間にわたり対陣を続けたが、状況は変わった。この間、上杉勢が増援するとの報に接し、家康は援軍を出しつつも、撤退を命令。結果的に、徳川軍は上田城から続々と退いたのである。

 その後、昌幸は来るべき戦いに備え、景勝の援助を受け、上田城の普請を行った。景勝は上田城を対徳川氏・北条氏の最前線と捉え、上田城の大規模な改修工事に対して、積極的な支援を行ったのである。

 一連の戦いでは、真田氏が秀吉を頼ったので、両者の関係は再び緊張に包まれた。付け加えておくと、信濃の小笠原氏も家康から離れ、秀吉に臣従する道を選んだのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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