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徳川家康の神君伊賀越。どのルートが一番正しいのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康が帰還した岡崎城。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康が神君伊賀越で三河国に向かっていた。神君伊賀越については、ルートが確定していないので、考えることにしよう。

 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長は自害した。当時、徳川家康は、和泉堺(大阪府堺市)で見物の最中だったが、ただちに対応策を検討した。家康は自害しようとしたが、それは家臣らの説得により取り止めた。

 そこで、家康は伊賀を越え、船で三河へ向かおうとした。三河で再起を期そうとしたのだ。そのルートが「神君伊賀越」であり、「神君」は家康の尊称である。当時、家康に従っていた者たちは、「徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)」を含め、わずか34名だったという。

 家康の逃避行のルートについては、次に示すルートが有力視されている(『石川忠総留書』)。

①6月2日 堺→平野→阿倍→山のねき→ほたに→尊念寺→草地→宇治田原

②6月3日 宇治田原→山田→朝宮→小川村

③6月4日 小川→向山→丸柱→石川→河合→柘植→鹿伏兎→関→亀山→庄野→石薬師→四日市→那古

 こうして家康ら一行は那古(三重県鈴鹿市)で船に乗り、三河に向かい、大浜(愛知県碧南市)を経て岡崎城に帰還したのである。ところが、以上のルートのうち、伊賀を越える道のりについては、次の異説がある。

①『徳川実紀』 小川→多羅尾→御斎峠→丸柱

②『三河記(戸田本)』 小川→甲賀越え→関

 ①は、遠回りになるうえに、伊賀惣国一揆(地侍層が一国的規模で団結した組織)の政庁がある上野(三重県伊賀市)の近くを通るので難があるという。

 ②は近江の甲賀衆(山中氏など)の案内があったと考えられ、山中氏の勢力下の水口(滋賀県甲賀市)から和田氏の勢力下の油日(同)を経て、柘植(三重県伊賀市)に抜けるルートが想定される。

 ところが、このルートでは伊賀までわずか5キロメートルしかないので、伊賀・伊勢を通過したという記録と矛盾が生じる(『家忠日記』)。やはり『石川忠総留書』の記述が信頼できる。

 乗船地についても、白子(三重県鈴鹿市)、四日市(同四日市市)、那古(同鈴鹿市)の諸説がある。家康が到着した場所は、大野(愛知県常滑市)という説があるが、『家忠日記』に際された大浜(愛知県碧南市)を信用すべきだろう。

 「神君伊賀越」については、確実な根拠史料がないため、今も論争となっている。ただ、家康がやみくもに脱出を試みたとは思えず、土地に詳しい案内者を起用し、合理的なルートで帰還したのは疑いない。

主要参考文献

平野明夫「「神君伊賀越え」の真相」(渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』柏書房、2016年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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