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武田氏滅亡の決定打!? 穴山梅雪の予想外だった裏切り

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
高遠城址公園の桜。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田氏滅亡の描写が乏しかったが、穴山梅雪の裏切りは重要なので取り上げておこう。

 天正10年(1582)2月25日、武田方の一門衆の穴山信君が突如として織田方へと寝返った。信君は甲斐府中に預けていた人質の妻子を密かに連れ出しており、離反の準備を万端整えていた。

 梅雪の織田方への離反は、武田軍の諸将に大きな衝撃を与えた。武田氏の重臣だったのだから、当然のことである。武田方の将兵の中には織田軍へ寝返る者がおり、ある者は悲観して山中へと逃亡したという。

 同年2月28日、武田勝頼は梅雪が裏切ったことを知り、上原の陣所から新府城へ移ったが、その後も吉報は届かなかった。武田方の戸倉城(静岡県清水町)、三枚橋城(静岡県沼津市)は次々と落城し、厩橋城(群馬県前橋市)の北条(きたじょう)高広も北条方へ寝返った。

 離反したのは、武将だけではなかった。織田信忠が大島城に入ると、農民が自分の家に火を掛けて、次々と城に入った。農民は勝頼の悪政に耐えかねて、織田方に忠節を誓うべく大島城にやって来たという。

 勝頼は織田信長との戦争を目前に控えて、新たに新府城を築いた。ところが、勝頼は築城の経費を賄うため、労働力も含めて百姓に負担を強いていた。そのツケが回ってきたといえよう。

 同年2月29日、用宗城(静岡市駿河区)の朝比奈信置は徳川方に城を明け渡し、今福虎孝が城代を務める久能城(同駿河区)へと退いた。しかし、直後に久能城も徳川方から攻撃され、虎孝は自害して果てた。

 翌3月1日には、武田方の深沢城(静岡県御殿場市)も落城した。武田方の諸城は、次々と落とされたのである。こうした状況下で、唯一頼りになったのが、高遠城(長野県伊那市)に籠る仁科盛信(武田信玄の五男)だった。

 同年2月21日、織田信長は高遠城の攻撃を本格化すべく、河尻秀隆、滝川一益に対して、城への道筋に付城を築くように命令した。付城とは敵の城の要所に築いた城で、攻撃の拠点となった。

 同年3月1日、信忠は飯島(長野県飯島町)から約5万の軍勢を出発させ、貝沼原(同伊那市)に至った。案内役を務めたのは、武田氏を裏切った小笠原信嶺で、河尻秀隆、森長可があとに続いた。織田方の軍勢は、高遠城まで約3キロの地点に迫ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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