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大河ドラマでは取り上げられなかった。武田勝頼が新府城を築いた重要な意味

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤武稲荷神社(新府城跡)。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、武田勝頼が新府城を築いたことがスルーされていたが、そこには重要な意味があったので考えることにしよう。

 武田氏が滅亡する前年の天正9年(1581)1月、新府城(山梨県韮崎市)の築城がはじまった。前年に穴山信君が築城を献言したので、勝頼は新府城を築くことを決意したのである。

 築城工事は急ピッチで行われたので、同年9月には早くも完成した。完成に至るまでは、多額の財政負担を要したのは言うまでもない。真田昌幸が労働の役を課すなどし、各地から農民が工事のため徴集された。

 一説によると、新府城の工事によって財政はすっかり厳しくなり、領民の心が武田氏から離れたとまでいわれている。しかし、勝頼が新たに新府城を築いたことには、重要な意味があったと指摘されている。

 武田氏の領国は本国の甲斐を中心にして、信濃、西上野、駿河へと版図を広げていた。甲斐だけを見るならば、中心に位置するのは躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)だった。しかし、武田領国全体を俯瞰すれば、甲斐の西部に位置する新府城が中心になった。

 新府城の近くを流れる富士川は、物資運搬の大動脈であり、領国全体のネットワークとなる陸路も交通の便が良かった。そのような理由から、勝頼は新府城の築城に活路を見出そうとしたのである。

 一方で、勝頼を取り巻く政治情勢は、実に厳しかったのも事実である。天正6年(1578)に勃発した御館の乱(謙信の2人の養子の景虎と景勝の家督争い)で、勝頼は景勝を積極的に支援した。

 翌年、戦いは景勝の勝利で終結したが、敗北した景虎は北条氏政の弟だったので、甲相同盟は決裂したのである。その後、氏政は勝頼に対抗すべく家康と連携したので、武田氏の情勢は厳しさを増していった。

 天正7年(1579)8月以降、駿河、伊豆の国境付近の軍事的緊張が高まり、やがて武田と北条は抗争を繰り広げた。勝頼は北条と徳川の東西から挟撃されたので、ますます戦いが厳しくなっていった。

 ピンチとなった勝頼は、常陸の佐竹氏を介して信長に和睦を申し入れたが、要請は受け入れられなかった。これにより勝頼は、織田、徳川との戦いを継続せざるを得なくなったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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