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織田信長の子・信忠と武田信玄の娘・松姫の婚約は、なぜ破談になったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、三方ヶ原の戦いが描かれていた。ドラマでは取り上げられなかったが、織田信長の子・信忠と武田信玄の娘・松姫が破談したことをご存じだろうか。

 永禄4年(1561)、松姫は武田信玄の六女として甲斐国躑躅ヶ崎館で誕生した。松姫の史料上の初見ははっきりしており、信玄が浅間神社に奉納した息女の病気平癒の願文が残っている。この息女こそが、松姫であると考えられている。

 武田氏が信濃から飛騨に侵攻した際、織田家は美濃へ攻め込んでおり、お互いが牽制しあうことになった。そのような事情もあり、永禄8年(1565)に信長の養女が勝頼の妻に迎えられた。政略結婚である。

 勝頼の妻は待望の男子(信勝)を産んだが、難産が災いして間もなく亡くなった。これにより、武田氏と織田氏との関係は、いったん途切れることになった。

 信長は、武田氏との良好な関係を継続する必要があると考え、嫡男・信忠の妻に松姫を迎えたいと申し入れた。信長の申し出は受け入れられ、信忠と松姫の婚約は成立した。松姫は、まだ7歳だった。

 元亀3年(1572)、信玄は大規模な西上作戦を敢行した。信玄の行軍ルートには、徳川家康が支配する三河・駿河の両国があった。信長は家康とも同盟関係を結んでおり、ここで厳しい判断を迫られたのだ。

 三方ヶ原で合戦になると、信長は家康に援軍を送った。これにより両者の同盟関係は消滅し、信忠と松姫との婚約も自然に解消した。婚約成立段階では、武田家では信忠の正室を預っているという認識のもと、松姫を「新館御料人」と呼んでいたが、もはや意味がなかった。

 信玄没後、勝頼は家督を継承したが、武田家は徐々に衰退した。松姫は父・信玄が亡くなった後、兄・仁科盛信に伴われ、信濃国高遠城に移った。天正10年(1582)、勝頼は織田・徳川連合軍に敗れ、天目山で自害した。これにより武田家の滅亡したのである。

 その後、松姫は八王子に移り住み、武田氏の遺臣・大久保長安の援助により信松院を建立すると、子供たちに読み書きを教えて生活したという。八王子で養蚕が盛んな理由は、松姫の指導によるとの説もある。松姫が亡くなったのは元和2年(1616)。享年56。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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