加藤清正が亡くなった原因は毒饅頭か? 3つの説から考える
現在でも、著名人の死因が明らかにされないことがある。戦国大名の場合は、突拍子もないような理由が死因として伝わっていることがあり、加藤清正もその1人である。清正の死因は3つ伝わっているので、検討することにしよう。
①腎虚説
腎虚とは、男性が女性と過度に交わることによって、腎水が枯渇して衰弱死することである。腎水とは精液のことで、かつて精液は腎臓で作られると考えられていた。
清正は徳川家康を安心させるため(裏切りの意がないことを示すため)、連日のように美女を集めて酒宴を行っていたという。この話は『当代記』、『別本黒田家譜』に書かれているが、事実か否か疑わしい。
②熱病説
後世に成った『清正記』によると、清正の死因は熱病だったという。慶長16年(1611)3月28日、家康と豊臣秀頼が二条城で会見を済ませると、清正は国元の熊本に帰った。
ところが、帰りの船に乗船したとき、清正を熱病が襲った。熊本に到着しても病気は完治せず、逆にますます悪化し、同年6月24日に亡くなったのである。
『続撰清正記』によると、熊本に帰国した清正は、2・3日してから舌が動かなくなり、しゃべることができなくなったという。それが熱病の影響なのか、別の理由があったのか不明である。
③毒饅頭説
慶長16年(1611)3月28日、家康と秀頼が二条城で会見を行ったが、その仲介を行ったのが清正らの武将である。
『十竹斎筆記』によると、2人の会見の際、秀頼、清正、浅野幸長、池田輝政に饅頭が出されたという。しかし、饅頭には毒針でも刺したのか、たくさん針で刺した穴が開いていた。
清正らは秀頼に食べることを勧めなかったが、家康に怪しまれることを恐れた。そこで、清正と幸長は、不信感を抱きつつも饅頭を食べたのである。
先述のとおり、清正は同年6月24日に亡くなり、幸長は2年後の8月25日に没した。清正が毒饅頭で死んだという逸話は、浄瑠璃『八陣守護城』、歌舞伎『清正誠注録』によって、人々に広く知られるようになった。
ただ、今となっては、清正の死因を探るのは難しい。①腎虚説、③毒饅頭説は荒唐無稽で疑わしく、②熱病説あたりが妥当ではないか。長旅の疲れで急速に体調が悪化し、死に至ったというのが自然なのかもしれない。