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天正18年(1590)の奥州仕置後、蒲生氏郷が会津に配置された納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
会津城。(写真:イメージマート)

 今でも地方への転勤を命じられる人はいるが、それは意味があってのことである。奥州仕置後、蒲生氏郷が会津に配置されたのも意味があったので、その点について考えることにしよう。

 天正18年(1590)7月、豊臣秀吉は小田原合戦で小田原北条氏に勝利し、念願の天下統一を果した。7月26日、宇都宮に到着した秀吉は、関東・奥羽の諸領主に対する処分と新たな知行割を行った(宇都宮仕置)。

 さらに8月9日になると、人質徴発・城郭破却・検地・刀狩などの奥羽における基本的な占領政策を発令した。これが奥州仕置である。

 同年8月末頃、蒲生氏郷は会津に入り、黒川城(のちの会津若松城)を自身の本拠地として、家臣らの知行割を行った。移封後の氏郷は、黒川城の本格的な修築と城下町の建設に着手し、地名を黒川から若松に改めた。会津支配を任された氏郷は、近江国日野城主の蒲生賢秀の三男である。

 永禄11年(1568)9月、氏郷は父と共に織田信長に属し、翌年8月の伊勢国大河内城攻めで初陣を飾り、同年冬に信長の娘の冬姫を妻とした。天正10年(1582)6月の本能寺の変では、父と共に安土城を守備して、信長の妻子を日野城に匿った。

 信長の死後、氏郷は秀吉に接近し、秀吉の側室として妹(三条殿)を送り込んだ。天正12年(1584)、氏郷は小牧・長久手の戦いで戦功を挙げ、伊勢国松ヶ島12万石の城主になったのである。

 ところで、中世以来、黒川城は蘆名氏・伊達氏が盤踞する会津地方支配の中心にあった。黒川城は湯川右岸の小丘陵上に築かれた平山城で、会津盆地の南東にある布引山を源流として北北西に流れる湯川が形成する扇状地の末端に位置していた。

 会津盆地は南北約35キロメートル、東西約10キロメートルの盆地床を持ち、東側を奥羽山脈、西側を越後山脈、北側を東西の両山脈、南側を帝釈山脈に囲まれていた。福島県内の盆地では、もっとも広大な平坦部が形成されている。

 また、南から阿賀川(大川)・宮川、東から日橋川・大谷川、北から大塩川・濁川などの諸河川が流れて、一部に扇状地と段丘が見られる地形だった。

 氏郷の会津移封は大加増であったものの、京都から遠く離れた土地への移封だったので、氏郷は極めて不本意に思っていたと言われている。

 ただ、豊臣政権の奥羽支配構想の中で、氏郷の移封は伊達政宗を牽制する意味を持っていた。天正18年(1590)10月の大崎・葛西一揆の際、氏郷は政宗が一揆を扇動している疑惑を秀吉に通報している。

 移封の理由は諸説あるが、氏郷が豊臣政権下の大名として、伊達氏などの東北の諸大名として配置されたのは間違いない。その背景には、氏郷が秀吉から厚い信頼を得ていたという理由があったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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