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【光る君へ】定子だけじゃなかった。天皇家に関わった藤原道隆の2人の娘

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇の中宮の定子に注目が集まっている。しかし、藤原道隆には定子のほかに、天皇家に関わった2人の娘がいたので、紹介することにしよう。

 平安時代の貴族にとって、後継者たる男子も重要だったが、女子も等しく重要だった。特に、藤原一族は娘を天皇に入内させ、娘が子を産み、その子が天皇になった際は、自らが摂政や関白になることによって、権力を掌中に収めようとした。

 以下、道隆の2人の娘を取り上げることにしよう。

◎藤原原子(?~1002)

 原子は、道隆と高階貴子との間に誕生した。長徳元年(995)、原子は東宮の居貞親王(のちの三条天皇)の后となった。

 しかし、同年に父の道隆が没し、その翌年に伊周・隆家兄弟が長徳の変で没すると、すっかり原子は後ろ盾を失ってしまった。とはいえ、原子は華やかな人物だったといわれており、その後も東宮からの愛を失ったわけではなかったという。

 長保4年(1002)8月、原子は吐血して、そのまま亡くなった。死因は同じ東宮妃の藤原娍子、あるいはその女房だった少納言の乳母の関与が疑われたという(『栄花物語』)。

◎御匣殿(みくしげどの:?~1002)

 御匣殿は、道隆と貴子との間に誕生し、姉の定子に女官の長として仕えていた。御匣殿とは女官を束ねる長のことであり、実名が伝わっていないゆえの便宜的な呼び名である。

 定子は亡くなる直前、脩子内親王、媄子内親王、敦康親王の養育を御匣殿に託した。そのような事情により、御匣殿は3人の姪と甥を育てることになったのである。

 定子の死後、御匣殿は一条天皇の寵を受け、やがて懐妊した。御匣殿が懐妊したので、長徳の変で没落した伊周・隆家は、チャンス到来とばかりに大喜びした。

 しかし、御匣殿は子を産むことなく、長保4年(1002)に亡くなったのである。一条天皇はすでに定子を失っていたので、御匣殿が亡くなった一報を耳にして、大いに悲しんだといわれている。

 このように、道隆は貴子との間に定子のほか、2人の娘をもうけたが、いずれも不幸な最期を遂げた。もし、もう少し長生きしていれば、2人の運命だけでなく、長徳の変で没落した伊周・隆家の生涯も少しは変わった可能性がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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