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豊臣秀吉は、なぜ母の隠し子だった兄弟姉妹を惨殺したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉のキャラが異彩を放っている。ところで、秀吉は母の隠し子だった兄弟姉妹を惨殺したというが、その理由を考えることにしよう。

 豊臣秀吉の兄弟姉妹といえば、弟の秀長や妹の朝日姫が知られている。しかし、フロイスの『日本史』によると、突然、秀吉の知られざる兄弟姉妹が姿をあらわしたという記述がある(以下、『日本史』による)。いったい何があったのだろうか。

 天正15年(1587)頃、秀吉のもとに、実の兄弟と称する若者が訪ねてきた。若者は美々しく豪華な衣裳をまとった2、30人の身分の高い武士を従え、大坂城にやって来たのである。人々は、若者が秀吉の兄弟であると確信したという。

 秀吉は、傲慢、尊大、軽蔑の念をこめ、母の大政所に若者を息子として認めるか否か問い質した。大政所は若者を息子として認知することを恥じ、「そのような者を生んだ覚えはない」と述べた。今さら息子がいるとは、言えなかったのである。

 大政所が「知らない」と言ったので、若者は秀吉に嘘をついたことになり、厳しい処罰が待ち受けていた。若者は従者ともども捕縛されると、秀吉の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝されたのである。

 フロイスは「このように関白(秀吉)は己の肉親者や血族の者すら(己に不都合とあれば)許しはしなかった」と述べている。若者は秀吉にとって、「黒歴史」となる邪魔な存在だったので。無残な最期を遂げたのは、この若者だけではなかった。

 その3、4ヵ月後、秀吉は、尾張国に貧しい農民の姉妹がいることを知った。そこで、秀吉は自分の血統が賤しいことを打ち消そうとし、彼女らを姉妹として認めて処遇すると言いくるめ、彼女らが望みもしないのに、都に呼び出すことにした。

 彼女らは秀吉の策謀に気付かず、幸運が舞い込んだと考えて都を目指した。しかし、彼女らが入京すると、たちまち秀吉配下の者に捕らえられ、斬首されたのである。秀吉は、最初から彼女らを認知する気はなかったのだ。

 秀吉は自らの出自が卑しかったこと、貧しい幼少期を過ごしたことを決して隠さなかった。とはいえ、母に隠し子がいたのはショックだったに違いない。まったく見ず知らずの兄弟姉妹は、将来の禍根になりかねないので処分したと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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