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いまだに謎多き、傾奇者だった前田慶次の没年について考えてみる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 前田慶次の墓石が堂森善光寺(米沢市万世町堂森)の裏山の中腹に建立された。墓碑銘の揮毫をしたのは、タレントの角田信朗さんだ。こちら

 ところで、慶次の生涯については謎が多く、その没年についても諸説あるので、考えることにしよう。

 前田慶次は父について誰なのか諸説あり、生涯も詳しくわかっていない。しかし、隆慶一郎さんの小説『一夢庵風流記』で取り上げられ、同書を原作とした原哲夫さんの漫画『花の慶次』で人々に広く知られるようになった。

 とりわけ慶次は傾奇者とされ、驚くような逸話が数多く伝わっている。また、彼自身が書いた『前田慶次道中日記』(市立米沢図書館所蔵)は貴重な史料であり、米沢市指定文化財でもある。

 『加賀藩史料』に収録された『考拠摘録』によると、慶次が亡くなったのは、慶長10年(1610)11月9日のことであるという。享年73と書かれているので、生年は逆算すると天文2年(1533)になる。慶次の遺骸は、大和国刈布の安楽寺に葬られたというが、なぜ慶次は大和国で亡くなったのか。

 慶次は晩年、病気となって大和国で療養生活を送っていた。しかし、上京しては「種々の犯惑」を振舞っていたので、その事実は人々によって前田利長に伝えられた。

 そこで、利長は慶次に大和国刈布での蟄居を命じたのである。時間の経過とともに慶次の病は重くなったので、自ら出家して「龍砕軒不便斎」と号した。そして、先述のとおり亡くなったのである。

 安楽寺の林には石碑が建立され、「龍砕軒不便斎一夢庵主」と銘が刻まれたが、理由があって俗名(慶次)と没年月日は刻まれていなかったという。残念ながら、この石碑は現存していない。

 つまり、『考拠摘録』によると、慶次は大和国で没したということになる。ところが、『加賀藩史料』に収録された『可観小説』には、没年を明記していないが、米沢(山形県米沢市)で亡くなったと記す。

 また、『前田氏系譜』は、慶次が会津の上杉景勝に仕え、同地で亡くなったと記している。『本藩歴譜』も、「奥州会津にて卒しぬ」と記している。ただし、両書には慶次の没年が記されていない。

 一方で、『米沢古誌類纂』には、慶次は慶長17年(1612)6月4日に米沢近郊の堂森の肝煎太郎兵衛宅で没したと記されている。『米沢里人談』は、没年を1年後の慶長18年(1613)6月4日とするなど相違がある。

 慶次の没年は二次史料にしか書かれておらず、いまだに謎が多い。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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