【光る君へ】藤原道長の姉・詮子と明暗を分けた超子とは
大河ドラマ「光る君へ」では、吉田羊さんが演じる藤原詮子の注目度が高い。ところで、詮子には超子という姉がいたが、ドラマでは登場しなかったので、取り上げることにしよう。
藤原詮子が兼家と時姫の間に誕生したのは、応和2年(962)のことである。一方で、詮子の姉の超子が誕生した年は不詳だが、一説によると、天暦8年(954)ではないかといわれている。超子の母は、詮子と同じく時姫である。
安和元年(968)、超子は冷泉天皇に入内し、同年12月に女御の宣旨を与えられた。当時、超子の父の兼家は蔵人頭であり、まだ公卿ではなかった。これは、父が公卿に列していないにもかかわらず、娘が女御になった初めての例である。
当時、兼家は兄の兼通と激しい出世争いを繰り広げていた。同年11月、兼家は兼通を追い越して、先に従三位に叙された。翌安和2年(969)、兼家は中納言に昇進した。そのうえ、兼家は娘の超子が女御になったので、これ以上の喜びはなかったであろう。
その後、超子は冷泉天皇との間に居貞親王(三条天皇)、為尊親王、敦道親王、光子内親王の三男一女をもうけた。兼家の喜びは、一入だったと考えられる。なお、三条天皇が即位したのは、一条天皇(円融天皇と詮子の子)が亡くなった年の寛弘8年(1011)のことである。
しかし、天元5年(982)1月28日、超子は急死したのである。『栄花物語』によると、その日は庚申待を行っていたという。庚申待とは、庚申の夜に三尸虫が体内を抜けて昇天し、天帝にその人の罪科を告げるといわれていたので、徹夜して三尸の昇天を阻むというものである。
その際の無理がたたったのか、超子はまるで眠っていたかのごとく、脇息に寄りかかって亡くなったと伝わっている。超子が亡くなったという一報を耳にした兼家は、激しく嘆き悲しんだという。その後、兼家は超子が死んだこともあり、庚申待を行わなくなったといわれている。
しかし、天元元年(978)に詮子が円融天皇に入内し、のちの一条天皇をもうけた。その後、兼家が栄達を極めたのは、大河ドラマのストーリーのとおりである。