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織田信長に仕える前の明智光秀は、越前の朝倉氏に仕えていたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:イメージマート)

 6月は本能寺の変が勃発し、明智光秀が織田信長を討つことに成功した月である。ところで、光秀は越前と関係が深かったといわれており、今も慕われている。こちら。光秀はかつて朝倉義景に仕えていたといわれていたが、それが正しいのか考えることにしよう。

 明智光秀は織田信長に仕える前、越前の朝倉義景に仕えていたという。光秀が朝倉氏に仕えたとされる根拠史料は、後世の編纂物『明智軍記』、『綿考輯録』である。以上の史料に基づき、まず経緯などについて触れておこう。

 光秀は父を失ってから各地を遍歴しており、弘治2年(1556)に訪れたのが越前国だったという。光秀は越前国に留まり、義景から5百貫文の知行で召し抱えられたといわれている。

 光秀は義景から命じられるままに鉄砲の演習を行い、その見事な腕前から鉄砲寄子百人を預けられた。光秀の軍事に対する高い才覚は、義景から高く評価されたのだ。これは大抜擢といえよう。

 以上が、光秀が義景に仕えるまでの流れである。ただ、問題なのは、光秀がそれだけの人物でありながらも、朝倉方の一次史料や記録類に一切登場しないことである。朝倉氏の重臣といってもいいくらいなので、非常に不審な点である。

 さらに、根拠となる『明智軍記』や『綿考輯録』は、史料としての問題点が非常に多く信が置けない。

 一方で、光秀が越前と深い関係を有していたとの指摘もある。『武家事紀』所収の天正元年(1573)に比定される8月22日付の光秀書状(服部七兵衛宛)は、光秀が越前で生活していた根拠とされているる。

 内容は「この度、「竹」の身上について世話をいただいたこと、うれしく思っております。恩賞として百石を支給します。知行を全うしてください」というものである(現代語訳)。

 この史料からは、残念ながら光秀が越前にいたことを示す内容とは読めない。この史料は、単に光秀が「竹」なる人物の世話をしてくれた恩賞として、服部七兵衛に百石を与えたものである。そもそも「竹」なる人物は不詳であり、光秀との関係もわからない。

 この史料は越前朝倉氏を討伐した関係で服部七兵衛に発給されただけで、少なくとも光秀が越前にいたという証拠にはならないだろう。光秀と越前の件は、改めて考えることにしたい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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