「どうする家康」足利義昭が織田信長を「管領」に任命しようとした複雑な事情
大河ドラマ「どうする家康」では、足利義昭がすっかりバカ将軍になっているが、織田信長を「管領」に任じようとしたという。今回はその点について、検討することにしよう。
足利義昭は織田信長の協力を得て上洛し、室町幕府の再興と征夷大将軍の就任を果たした。その直後、義昭は信長を管領に任命しようとしたが、その事情を考えることにしよう。
室町幕府の職掌の一つの管領は、将軍を補佐する職務である。義昭は信長に対して、管領に「准じる」扱いにすると述べたが、「准じる」は「ある基準のものと同様に考える」という意味なので、正式な任命ではない。
信長は義昭にとって恩人だったが、あくまで一家臣に過ぎなかった。信長はその扱いに不満を抱き、かつ義昭の配下に収まることを嫌い、管領に「准じる」ことを断ったと推測される。
永禄12年(1569)3月、正親町天皇は信長を副将軍に任じようとしたが(『言継卿記』)、信長はついに受諾の可否を回答しなかった。信長が征夷大将軍の義昭の配下になることを潔しとせず、あくまで対等にこだわったと考えられる。
副将軍は「軍防令」第24条に規定されており、平安時代には任命された者も存在した。南北朝期以降は、足利尊氏が征夷大将軍になったとき、弟の直義が「日本ノ副将軍」になったという記録がある(『太平記』)。
また、嘉吉元年(1441)の結城合戦後、今川範政は軍功を称えられ、足利義教から「副将軍」任命されたという。しかし、いずれも二次史料(軍記物語など)に書かれたことであり、まったく確証を得ない。
信長が明確に回答しないということは、そのまま「受けない」という気持ちを意味したのである。正親町天皇の心証を悪くするのは、得策ではないと考えたのだろう。信長の配慮でもあった。
義昭は室町幕府を再興し、征夷大将軍に就任するという念願をか叶え、信長に感謝の意を官職を与えることで表現しようとした。副将軍についても、義昭が朝廷に推挙した可能性があろう。
一方の信長は浮かれることなく、極めて冷静だった。信長は義昭の政権運営に協力したが、一定の距離を保とうとした。この距離感が2人の確執を生んだように思えてならない。