「どうする家康」ちゃっかり朝廷に擦り寄っていた、徳川家康の戦略と真意とは
大河ドラマ「どうする家康」では放映されなかったが、徳川家康は朝廷に献金していた。その経緯、戦略、真意について、考えることにしよう。
永禄12年(1569)に徳川家康は今川氏真を攻略すべく、遠江に攻め込んだ。ちょうど同じ頃、正親町天皇が家康に献金を求めていた。それは、正親町の父・後奈良天皇の十三回忌を迎えるに際して、懺法(せんぽう)講を催すためだった。
当時、全国にある禁裏領(朝廷の所領)は有名無実になっており、朝廷の財政が非常に厳しくなっていた。朝廷の行事が財政難で中止になるのは珍しくなく、天皇の即位式すら満足に行えないことが常態化し、各地の大名に献金を依頼していたのである。
同年7月8日、正親町の命を受けた山科言継は、家康へ献金を要請すべく京都を発った。その途中、言継は織田信長の本拠の岐阜(岐阜市)に立ち寄った。信長は言継が家康のもとへ向かう理由を聞いて、大変驚いたと伝わっている。
信長が驚いたのは、自分に献金の要請がなかったからだろう。信長は家康が駿河に在陣していること、また暑いうえに言継が老齢でもあったことから、このまま岐阜に滞在するように勧めた。その代わり、信長が飛脚を遣わし、家康に用件(献金の要請)を伝える旨を申し出た。
加えて、もし家康に献金の意思がない場合は、信長が代わりに1・2万疋を進上すると申し出たのである。信長の申し出を受けた言継は、その厚意に甘えて岐阜に滞在することとした。
要請を受けた家康は、朝廷に2万疋を進上した。その結果、後奈良の13回忌の懺法講は、滞りなく執り行われたのである。家康の献金に対して、正親町が大喜びだったのは女房奉書によって知られる。家康には、お礼として緞子5反が贈られた。
家康が朝廷の要請に応じて献金したのは、これより以前に官位(三河守)を授けられた件も絡んでいるだろう。もう一つ重要なのは、献金に応じることによって、東海地方における家康のプレステージが高まることである。信長が驚いたのは、そういう理由があったからだった。