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足利将軍はバカで無能ではなかった。これだけの納得できる理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
足利氏の家紋「足利二つ引」。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が織田信長とともに上洛し、足利義昭と面会した。足利将軍は無能だったといわれているが、その点について考えることにしよう。

 今回は古田新太さんが演じる足利義昭が登場したが、常軌を逸するほど酷いバカで無能な将軍に描かれていた。戦国期の足利将軍は威勢が衰え、ときに京都を出て地方での生活を余儀なくされたが、本当にバカで無能だったのだろうか。

 室町幕府が誕生したのは、延元元年(1336)のことである。当時は南朝と北朝が争った時代で、初代将軍の尊氏、2代将軍の義詮は大いに苦労した。明徳3年(1392)に南北朝が合体すると、ようやく風向きが変わってきた。

 3代将軍の義満は、将軍権力の専制化に努めた。明徳の乱で山名氏、応永の乱で大内氏との戦いに勝利し、その威勢を削ぐことに成功した。以降、後継者となった義持、義教は、守護抑制策に力を入れ、将軍権力を保つことに成功した。

 しかし、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で義教が赤松満祐に謀殺されると、たちまち将軍権力に陰りが見えた。応仁の乱(1467)が勃発すると、ときの将軍の義政は混乱を鎮めることができなかった。特に義政は、「無能将軍」のレッテルを貼られた。

 明応2年(1493)の明応の政変で細川政元がクーデターを起こすと、以後の将軍家は義稙流と義澄流に分かれてしまった。この政変を画期として、戦国時代がはじまったとの見解があるほどである。以後の将軍は地方に出奔することも多く、権威は失墜した。

 とはいえ、最近の研究によると、「足利将軍は無能」との見解に異議が唱えられている。たとえば、将軍は大名間の抗争を鎮めるべく調停をしたり、守護が官位を希望すれば朝廷に仲介した。何より、京都を中心とした畿内静謐は将軍の手に掛かっていた。

 それは義昭も同じことで、上洛して幕府再興後は大いに存在感を示した。とはいえ、義昭単独では軍事力も乏しく、信長の助力が必要だったのは事実である。のちに、義昭は信長と路線が違ったので決裂したが、決裂後の義昭に与する大名は存在した。

 信長以前の細川氏、六角氏などが将軍を支えたのは、将軍の存在価値を認めたからだろう。それは、信長も同じだった。将軍の存在価値を認めず、無能呼ばわりすると、この時代を正しく認識できないのはたしかなことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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