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徳川家康が遠江に侵攻した際、武田信玄とトラブルになった裏事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、武田信玄が駿河に攻め込み、今川氏は窮地に陥った。その際、徳川家康も遠江に攻め込んだが、信玄と揉めた。その辺りの事情について、考えることにしよう。

 永禄11年(1568)12月12日、氏政(氏康の子)が小田原(神奈川県小田原市)を出発すると、たちまち沼津(静岡県沼津市)まで軍を進めた。その後、北条勢が今川氏家臣らと協力し、武田勢と対峙したので、形勢を挽回しつつあった。

 徳川家康は信玄の動きに呼応するがごとく、遠江への侵攻を開始した。このとき家康の軍勢を手引きしたのが、「井伊谷三人衆」と呼ばれる菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時である。

 家康は事前の調略戦が功を奏し、破竹の勢いで進軍した。寝返って自陣に与したものには知行安堵や恩賞給付を行った。二俣城の鵜殿氏、犬居城の天野氏、高天神城の小笠原氏などである。

 ところが、一方でアクシデントも生じていた。武田方の秋山虎繁が信濃の軍勢を率いて遠江の北部に侵攻し、徳川の軍勢と戦って破り、その勢いで引間に迫ろうとしていた。武田氏の動きに呼応した家康にとって、これは寝耳に水で驚天動地の心境であった。

 想定外のことに驚いた家康は、信玄に抗議を行った。しかし、両者には行き違いがあったようで、事情を知らない信玄は家康の出兵を喜び、さらに掛川の氏真を攻撃するように依頼した。信玄に遠江侵攻の意図はなかったようだ。

 翌年早々に信玄は家康の抗議の書状を受け取り、事情を察したらしく、その返書のなかで秋山氏らの軍勢を駿府に引き揚げさせる旨を伝えている。これで何とか誤解は解けたようである。

 編纂物ではあるが、『松平記』『三河物語』『甲陽軍鑑』には、駿河・遠江侵攻に際して、遠江は家康が支配し、駿河は信玄が支配するという盟約があったと記している。おそらく信長と信玄の同盟が結ばれたとき、右の条件がすでに家康と信玄の間で共有されていたのであろう。

 永禄12年(1569)2月、両者はこれまでの行き違いを解消すべく、起請文を交わして改めてい互いの連携を確認した。先に要請したのは、信玄のほうである。こうして互いに起請文を交わしたが、まだ家康には疑念が残っていたようである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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