家康が織田信長にビビりまくっていたというのは、あり得ない話ということ
大河ドラマ「どうする家康」では、松平家康が織田信長に会うたびにビビりまくっている。家康と信長の本当の関係について、考えることにしよう。
当初、織田信長と松平(徳川)家康の関係は対等だったと指摘されている。信長が家康に軍事援助を求める際は、将軍・足利義昭を介する必要があった。家康は義昭の命を優先し、信長の意向はそれよりも優先度が落ちたという。
もともと信長と家康が結んだ同盟とは、単なる領土画定の同盟に止まっており、軍事同盟までは含まれていなかったという。つまり、信長が上で、家康が下という理解は当たらないのである。
天正元年(1573)に足利義昭が信長によって京都を追放されると、状況は変わった。これまで信長と家康は対等な関係だったが、家康は信長の臣下になったのである。以降、家康は信長に従属を余儀なくされた。
天正3年(1575)の長篠の戦いで、信長は家康に先陣を命じた(『信長公記』)。家康が国衆の一人と認識されていたのだから、信長の配下にあったのは明らかである。
天正7年(1579)、家康は子の信康を自害に追い込んだ。これまで、家康は信長の命によって、泣く泣く信康を斬ったとされてきたが、今では誤りであると指摘されている。
家康は信長に従って武田氏を討伐する方針を堅持し、その方針に反対する信康の存在が家中分裂、つまり徳川家の崩壊につながると予想し、あえて信康に自害を命じたのである。
こうした例は徳川家だけではなく、当時の戦国大名に見られた事例でもある。したがって、家康が信康に自害を命じた件を根拠として、信長を恨んでいたという説は当たらない。
また、武田氏の滅亡後、信長にとって家康が用済みになったという見解も誤りである。越後の上杉氏や関東に覇権を築いた北条氏は健在で、強力な相手だった。信長は家康の軍事力を必要としていたので、その利用価値は十分にあった。
家康は信長が領土拡大戦争を行ううえで、貴重な戦力だった。したがって、信長と家康の仲が悪かったとは一概に言えず、ましてや信長が家康を警戒していたとは認められないのだ。