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【深掘り「どうする家康」】まったく人望がなかった、今川家家臣・鵜殿長照の真の姿

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川義元本陣跡。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、今川家家臣・鵜殿長照が登場していた。鵜殿長照には人望がなかったといわれているが、その点を深掘りすることにしよう。

 実は、地味に最初の方からドラマに出ていた鵜殿長照。長照の役を演じているのは、野間口徹さんである。長照は今川家に仕えていた長持の子として誕生したが、生年は不詳である。弘治2年(1556)に長持が亡くなったので、長照は家督を継いだのである。

 長持の妻は、今川義元の妹だったといわれている。長持は当主の妹を娶り、かつ長照はその間に生まれたのだから、重用される理由は納得である。しかし、長持の妻が義元の妹だったという説については、異論があることも申し添えておきたい。

 長照が本拠としていたのは、上之郷城(愛知県蒲郡市)である。同城は三河国の東部に位置し、今川領国の遠江国に近かった。義元の時代には松平氏と同盟を結んでいたとはいえ、牽制するうえで重要な地点だったのはたしかである。

 永禄3年(1560)5月に桶狭間の戦いが勃発し、義元と織田信長は雌雄を決することになるが、長照は大高城(名古屋市緑区)の守備を任されていた。義元は長照を信頼していたがゆえに、あえて最前線に送り込んだと考えられる。

 しかし、大高城は尾張国内にあり、信長の軍勢の激しい攻撃に晒されていた。時間の経過とともに兵糧は減り、ついに籠城していた将兵は草木を口にして、飢えを凌ぐという窮地に陥った。

 そこで、松平元康は義元の命によって、大高城に兵糧を運び込み、その窮地を救ったのであるが、戦後は対立関係となった。

 戦後、長照は、元康に与した竹谷(愛知県蒲郡市)に本拠を持つ松平清善と戦いを繰り広げた。しかし、長照は人望がなかったので、家中から離反者が続出したという。家中を脱した者は駿府に逃亡するか、元康の味方になるべく降参したという。

 竹谷城に夜襲を仕掛ける際は、将兵が賭博をしていたので失敗した。この話も長照に人望がなかったことのあらわれなのだろうか。

 このように人望がなかった長照であるが、元康が放った服部半蔵が率いる忍者を追い払ったという記録はない。これはフィクションであろう。ともあれ、その後の長照は、元康に攻められて非業の死を遂げるのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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