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織田信長は、本当に神を恐れぬ無神論者だったのか。そのありえないワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黄金の信長像。(写真:イメージマート)

 東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が公開されている。今回は、織田信長が足利義昭を推戴して上洛した意味について考えてみよう。

 織田信長が無神論者とされる理由は、フロイスの『日本史』に書かれた、「彼(信長)は良き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」という一節に基づいている。

 この一節を読むと、信長は合理主義者であり、神仏の信仰はもちろんのこと、占いなどに関心を示さなかったことがわかる。関心どころか、軽蔑とすら書かれている点には驚かされる。

 『日本史』の別の箇所には、「(信長は)霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」と書かれている。信長の無神論者を裏付ける根拠だ。当時の人々は来世を信じている人が多かったが、信長はそうでなかったというのである。

 実は、信長が無神論者であると書いているのは、フロイスの『日本史』だけで、日本側の史料には記載がいない。最近の研究によると、『日本史』は何の疑問も持たれず活用されてきたか、外国人の宗教者が書いたので信用できないとする二項対立の側面があったという。

 フロイスはキリスト教に理解を示す大名を好意的に記し、そうでなければ辛口の評価を与えた。したがって、無批判な使用は避け、日本側の史料と突き合わせることにより、事実関係を確認する必要がある。『日本史』の史料的な評価については、さらに検討が必要だ。

 実は、『日本史』には、「当初名目上(信長)は法華宗に属しているように見せていたが、顕位(高い位。この場合は右大臣)に就いて後は自惚れ、自分を総ての偶像より上位に置き、若干の点で禅宗の考えに同意して(後略)」という一節がある。

 信長は法華宗を信仰しているように見せかけていたが、実際は禅宗の宗旨に従っていた。天正4年(1576)に信長が安土城(滋賀県近江八幡市)を築城した際、自らの菩提寺とすべく、城下に摠見寺を移築した。摠見寺は、臨済宗妙心寺派の寺院である。

 信長が無神論者であるならば、わざわざ菩提寺を移築する必要はない。したがって、信長も当時の人々と同じく、少なくとも仏教を信仰していたことが明らかなのだ。

 信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用いていた。京都では法華宗寺院を宿所に選ぶことがあったので、信長が法華宗も信仰していたのは明らかなのである。

 結論を言えば、『日本史』の記述を置くとしても、日本側の史料は信長が神仏を信仰していたことを示しており、無神論者と考える必要はないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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