【深掘り「鎌倉殿の13人」】源実朝の暗殺後、幕府が手を焼いた後継者問題の真相
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝が殺害されたが、その後、北条氏はどのような体制を築こうとしたのか、詳しく掘り下げてみよう。
■源実朝の死後の体制
建保7年(1218)1月、源実朝が公暁によって鶴岡八幡宮で殺害された。実朝には後継者たる男子がいなかったので、誰が跡を継ぐのかが大問題となった。
ドラマでは影が薄いものの、実際に幕政の中心を担わざるを得なかったのが北条政子である。政子は執権の義時と協力して、事態の収拾を図り、新体制の構築に着手せねばならなかった。
ところで、実朝は公武関係の緩衝材としての役割を果たしていたので、その死は両者の関係に大きな悪影響をもたらした。当時、幕府と朝廷の関係は土地支配をめぐり、徐々に悪化の一途をたどっていたのである。
■後継者問題
実朝は征夷大将軍に加え、正二位・右大臣という地位にもあり、貴族的な地位を有していた。それゆえ実朝は公武関係の橋渡しをしてきたのであるが、それが御家人に受け入れられたのかは疑問が残る。
当初、御家人は武家政権の指導者として源頼朝(実朝の父)という武家の貴種を望んでいたが、やがて源家が貴族的な性格を有すると、その必要性は徐々に低下していった。執権が将軍を支える体制も整ってきた。
それは、政子や義時も同じ考えで、貴族的な性格を持った源家という貴種に頼るよりも、親王将軍を望む気運が高まった。いかに源家に権威があるとはいえ、天皇家には敵わなかった。そこに偶然ではあるが、実朝の死というショッキングなできごとが起こったのだ。
■まとめ
とはいえ、ことは簡単ではなかった。幕府が皇族から将軍を迎える構想は以前からあったものの、ここに来て公武関係は悪化していた。その原因は、先述のとおり全国の土地支配をめぐる問題であり、朝廷は大いに不満を抱いていた。
ドラマの中でも、親王将軍を迎えるか否かで、義時らの議論が白熱していたが、その点に関しては改めて取り上げることにしよう。