Yahoo!ニュース

【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田合戦前夜。源実朝は和田義盛の挙兵計画を知り、止めようとした

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源実朝。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、いよいよ北条義時が和田義盛と交戦した。その際、源実朝が義盛の挙兵を止めさせようとしたので、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。

■挙兵を決心した和田義盛

 和田義盛は、北条義時のたび重なる嫌がらせにはらわたが煮えくり返っていた。申請した上総国司(上総介)の任官は認められず、泉親衡の乱では甥が陸奥国に流された挙句、邸宅は義時に没収された。このままでは、義盛自身に危険が及ぶのは目に見えていた。

 建暦3年(1213)3月19日、50もの兵が義盛の邸宅に参上していた。その2日前、義盛の甥の胤長が陸奥国岩瀬郡に流されていたのだから、誠に不穏な動きだったといってもよいだろう。

 同年4月の段階で、すでに実朝は義盛の挙兵を知っていたという。同じ頃、義盛は僧侶を伊勢神宮に遣わし、祈禱を行っているが、それは義時との合戦に際しての戦勝祈願であろう。

■実朝の動き

 義盛が義時に戦いを挑もうとしていたことを知った実朝は、使者を義盛のもとに遣わし、挙兵を思い止まらせようとした。同年4月27日のことである。

 実朝にすれば、御家人同士が戦うなど、メンツに関わる大問題だったからだ。それは決して、実朝の義盛に対する優しさではないだろう。

 使者に面会した義盛は、謀反の意思などさらさらないとしたうえで、「義時があまりに傍若無人な態度なので、その子細を尋ねるため、発向しようとしただけだ」と述べたのである。しかし、これが本心でなかったことは、その後の行動から明らかだ。

 実朝は重ねて義盛を説得しようとしたが、謀反の決心を翻すことができなかった。義盛は和田一族のほか、横山党などの豪族、そして三浦義村を頼りにしていたという。挙兵の準備は、万端整っていたのだ。

■まとめ

 しかし、義盛の行動はすでに義時に伝わっていた。義時は「義盛に謀反の意あり」ということで、鎌倉の御家人を呼び寄せていた。こうして、義盛と義時の戦いは避けられない状況になっていったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事