【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田合戦前夜。源実朝は和田義盛の挙兵計画を知り、止めようとした
![](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/iwiz-yn/rpr/watanabedaimon/00321445/title-1667094019503.jpeg?exp=10800)
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、いよいよ北条義時が和田義盛と交戦した。その際、源実朝が義盛の挙兵を止めさせようとしたので、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。
■挙兵を決心した和田義盛
和田義盛は、北条義時のたび重なる嫌がらせにはらわたが煮えくり返っていた。申請した上総国司(上総介)の任官は認められず、泉親衡の乱では甥が陸奥国に流された挙句、邸宅は義時に没収された。このままでは、義盛自身に危険が及ぶのは目に見えていた。
建暦3年(1213)3月19日、50もの兵が義盛の邸宅に参上していた。その2日前、義盛の甥の胤長が陸奥国岩瀬郡に流されていたのだから、誠に不穏な動きだったといってもよいだろう。
同年4月の段階で、すでに実朝は義盛の挙兵を知っていたという。同じ頃、義盛は僧侶を伊勢神宮に遣わし、祈禱を行っているが、それは義時との合戦に際しての戦勝祈願であろう。
■実朝の動き
義盛が義時に戦いを挑もうとしていたことを知った実朝は、使者を義盛のもとに遣わし、挙兵を思い止まらせようとした。同年4月27日のことである。
実朝にすれば、御家人同士が戦うなど、メンツに関わる大問題だったからだ。それは決して、実朝の義盛に対する優しさではないだろう。
使者に面会した義盛は、謀反の意思などさらさらないとしたうえで、「義時があまりに傍若無人な態度なので、その子細を尋ねるため、発向しようとしただけだ」と述べたのである。しかし、これが本心でなかったことは、その後の行動から明らかだ。
実朝は重ねて義盛を説得しようとしたが、謀反の決心を翻すことができなかった。義盛は和田一族のほか、横山党などの豪族、そして三浦義村を頼りにしていたという。挙兵の準備は、万端整っていたのだ。
■まとめ
しかし、義盛の行動はすでに義時に伝わっていた。義時は「義盛に謀反の意あり」ということで、鎌倉の御家人を呼び寄せていた。こうして、義盛と義時の戦いは避けられない状況になっていったのである。