【深掘り「鎌倉殿の13人」】源実朝と和田義盛は、友達のように家を行き来していたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝と和田義盛は、友達のように家を行き来していた。本当にそのようなことがあったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■ドラマにおける源実朝と和田義盛
ドラマにおける源実朝と和田義盛は、まるで仲の良い友達のように互いの家を行き来している。意気投合といえばいいのか、2人は互いに強い信頼関係で結ばれていたようでもある。
その際、遊びとして行われたのが双六である。双六とは、当時行われた盤上遊戯の一つで、貴族社会では大流行した。中国から伝わった遊びであり、やがて武家の間でも行われるようになった。
とはいえ、ドラマのように実朝と義盛が主従関係を超えて、友達付き合いのような形で交流していたとは思えない。ドラマをおもしろくするための演出と考えたほうかよいだろう。
建保元年(1213)の和田合戦が勃発すると、義盛は一族もろとも北条義時ら幕府軍によって討伐された。同年12月、実朝は寿福寺で義盛とその一族の冥福を祈ったので、親愛の情があったのかもしれない。
■2人の関係を物語る史料
実朝と義盛の関係を物語る史料がないわけではない。建暦2年(1212)6月、実朝は義盛の邸宅を訪れた。その際、義盛は和漢の名将を描いた画像を献上したという。現存していないものの、貴重な絵画だったのはたしかなことだろう。
同年8月、伊賀朝光と義盛は、実朝の命により北面の三間所に参上した。本来、それは近習の壮士が務めるのが習わしだった。しかし、実朝は歴戦の強者である2人から昔の話を聞くため、あえて命じたのである。昔の話とは、合戦に関わるものだろう。
つまり、実朝が義盛と語ろうとするならば、好きなときに召し寄せるのは難しく、公的な任務を帯びていなければならなかったと考えられる。厳密な線引きがあったようだ。
■まとめ
実朝と義盛が公私ともども親しかったのかは、今となってはわからないことが多い。いずれにしても、ドラマのようなことは考えにくく、主従関係に基づいた関係だったと考えられる。