【深掘り「鎌倉殿の13人」】地味ながらも個性的な、矢柴俊博さん演じる平知康の意外な一面
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の30回目では、平知康が出ていた。これまでもたびたび登場した平知康について、詳しく掘り下げてみよう。
■平知康の来歴
平知康は、知親の子として誕生した。生年は不詳である。知康は父の知親とともに、後白河天皇に北面の武士として仕えた。検非違使を務めていた。なお、知親の生没年は不詳である。
寿永2年(1183)7月、平家が都落ちしたあとに木曽義仲が入京すると、知康は後白河の使者としてたびたび義仲のもとを訪れた。知康は、後白河の最側近の1人だった。
義仲の入京後、配下の将兵は洛中でたびたび狼藉(食糧の強奪など)に及んだ。そこで、知康は後白河の意向を受け、義仲に将兵の狼藉を止めるよう注意してほしいと伝えた。
ところで、知康は鼓の名手として、「鼓判官」と称されていた。それを知っていた義仲は、「あなた(知康)が鼓判官と呼ばれるのは、たくさんの人に顔を殴られたからか」と侮辱した。
怒った知康は、後白河に義仲の討伐を進言し、法住殿に兵を集めて臨戦態勢を整えた。そして、義仲に京都から出て行くように通告し、応じなければ義仲追討の宣旨を下すと強い態度に出たのだ。
同年9月、義仲は法住殿に攻め込むと、後白河を幽閉した。知康は防戦したが敗北し、ついに官を解かれた。ドラマとは違って、知康は大変な熱血漢だったのである。
■その後の知康
その後、義仲は源義経・範頼兄弟に討たれたので、知康は復帰を果たした。同時に、知康は義経の知遇を得たが、義経は兄の頼朝との関係が悪化した。これにより、知康の立場も苦しくなった。
義経は頼朝に敵対したが、自ら都落ちした(のちに奥州で討たれた)。この影響を受けて、知康は頼朝から官を解かれてしまったのである。困った知康は、ある行動に出た。
文治2年(1186)、知康は頼朝に義経の件を弁明すべく、鎌倉へと下向した。そして、頼朝の子・頼家の蹴鞠を指導する名目で、そのまま鎌倉に留まることになったのだ。
知康は蹴鞠の技術だけではなく、豊かな教養を兼ね備え、武人としても優れていた。それゆえ頼朝は、頼家の側近として登用したのだろう。
建久10年(1199)1月に頼朝が亡くなって以降も、知康は頼家に仕えた。しかし、建仁3年(1203)に頼家が伊豆の修禅寺に幽閉されると、知康は役割を終えたのか京都に戻ったのである。
■まとめ
実は、知康のその後の動静はわかっていない。没年も不明である。ドラマでは、どことなくコミカルでプライドの高い知康だったが、実際は文人としても優れており、熱血漢だったことを覚えておいてほしい。