【深掘り「鎌倉殿の13人」】文覚は本当に源義朝の髑髏を持っていたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では久々に文覚が登場し、しかも源義朝の髑髏の件もあった。文覚や髑髏の件について、詳しく掘り下げてみよう。
■文覚の逸話
保延5年(1139)、文覚は渡辺党の武士・遠藤茂遠の子として誕生した。文覚は俗名を盛遠といい、北面の武士として上西門院(鳥羽天皇の娘)に仕えていた。そもそもは僧侶ではなく、武士だったのだ。
文覚は同僚の源渡の妻・袈裟に恋をしたが、誤って袈裟を殺してしまった。事件後、文覚は大いに後悔して出家し、その後は修行を積むため諸国を遍歴した。仁安3年(1168)、文覚は神護寺(京都市右京区)に住むようになり、その興隆に努めるようになった。
文覚の性格は乱暴で、行動力こそあったものの、人の悪口を言いふらし、学識がまったくなかったという。天狗を祀り、海の嵐をも鎮める不思議な法力を持っていたといわれている。歌人として名高い西行を憎んだという話もある。
文覚が僧侶にしては、良からぬ評価である。それらが事実か否かは不詳であるが、かなりアクの強い人物だったようだ。
■文覚と源頼朝
文覚は神護寺の再興を強硬に推し進め、ついには後白河法皇に荘園を神護寺に寄進するよう強要した。この行為が後白河の逆鱗に触れ、伊豆へと流された。
伊豆に流された文覚は、源頼朝と知遇を得た。2人は4年にわたって交流し、慣れ親しんだといわれている。治承2年(1178)、文覚は罪を許されて京都に戻った。
治承4年(1180)、以仁王の「打倒平家」の令旨が各地に送られると、文覚は頼朝に挙兵を促したといわれている。文覚は、片時も頼朝のことを忘れていなかった。
文覚が頼朝のもとに向かい、「打倒平家」の挙兵を迫った際、頼朝の亡き父・義朝の髑髏を見せたと伝わる。「義朝の悲願(打倒平家)を達成せよ!」ということだろう。
ただし、この話はいささか荒唐無稽に過ぎ、そもそもどうやって義朝の髑髏を入手したのか大いに疑問が残る。しかも、それが本物の義朝の髑髏だったのかも、確証はなかったはずである。
■むすび
今回のドラマでは、源頼家が父・頼朝の後継者になった際、義朝の髑髏を見せられていた。周囲は義朝の髑髏であるとは思っていなかったが、一種の縁起物のようにみなしていたようだ。
いずれにせよ、文覚が頼朝に義朝の髑髏を見せたというのは史実とは認めがたく、頼朝に「打倒平家」の決起を促した、単なる一つのエピソードにすぎないと思われる。