大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の26回目では、源頼朝の弟・阿野全成が北条時政から「鎌倉殿」に切望された。全成はなぜ時政と結託したのか、詳しく掘り下げてみよう。

■阿野全成とは

 そもそも阿野全成とは、いかなる人物なのだろうか。

 仁平3年(1153)、阿野全成は源義朝と常盤御前の子として誕生した。頼朝は異母兄、義経は同母弟である。幼名は今若といったが、幼少の頃の記録はほとんど残っていない。

 平治元年(1159)の平治の乱で、父の義朝は平家との戦いに敗れ、尾張に逃亡したが殺害された。全成は辛うじて死罪を免れ、醍醐寺(京都市伏見区)で出家し僧侶となった。悪禅師と号したほどだから、かなり武芸に通じていたのだろう。

 治承4年(1180)、頼朝が伊豆で打倒平家の兵を挙げると、全成もただちに呼応し、寺を抜け出して東国へ下向した。頼朝は石橋山の戦いで敗れたが、佐々木兄弟の導きもあり、下総鷺沼(千葉県習志野市)で全成と対面を果たした。

 頼朝は弟の全成と初めて会ったとき、その志に感涙したと伝わっている。その後、全成は阿波局(北条時政の娘)を妻とし、長尾寺(神奈川県川崎市)を与えられた。さらに駿河阿野荘(静岡県沼津市)を与えられ、「阿野」を名字とするようになった。

■出世コースに乗った全成

 全成にとって重要なことは、阿波局を妻としたことだろう。阿波局は北条時政の娘であり、北条政子(頼朝の妻)の妹でもあった。つまり、全成は頼朝および北条氏の勢力圏にあったといえよう。

 さらに大切なことは、阿波局が頼朝の子・千幡(のちの実朝)の乳母になったことだ。乳母は子の両親から信頼を置かれた人物が務め、しかも子の成人後は、大きな発言力を持つことになった。それは、乳母の夫も同じである。

 つまり、全成は単に頼朝の弟というだけに止まらず、妻が千幡の乳母になることで、一定の権力を保持しえたのである。全成は頼朝の弟だったのだから、源頼家や実朝に万が一のことがあった場合は、有力な「鎌倉殿」候補に成りえた。

 建久10年(1199)、頼朝が亡くなると、頼家が次の征夷大将軍となった。頼家を支えていたのは、比企能員ら比企一族である。能員の妻は、頼家の乳母を務めていた。つまり、比企一族は頼家の後ろ盾として権勢を持った。

 おもしろくないのは時政であり、それは全成も同じだったかもしれない。やがて、時政と全成は結託し、頼家そして比企一族と対立の様相を呈する。

■まとめ

 全成が頼朝の打倒平家の挙兵に応じなければ、そのまま醍醐寺の一僧侶のまま生涯を送ったかもしれない。しかし、頼朝に重用されるなどし、その地位も高まったが、最終的には悲劇的な死を遂げる。そのあたりは、追々取り上げることにしよう。