兵庫県の氷上高校の野球部員が「丹波の赤鬼打線」を実現すべく、荻野直正の居城・黒井城でランニングをしているという。こちら。ところで、荻野直正が織田信長と戦った経緯について、深掘りしてみよう。

■荻野直正と織田信長との対決

 天正3年(1573)10月1日、ついに織田信長は荻野直正の討伐を決意し、片岡藤五郎に出陣を命じた(「新免文書」)。信長は直正が不義の気持ちを露わにしていたが、これまでは懇望してきたので許してきた。

 しかし、今は野心を抱いて、信長のもとに出頭することもないので、もはや許すことはできないというのが直正を討伐に至った主張である。そこで、信長は直正を退治すべく明智光秀を丹波に派遣し、片岡氏にも出陣を命じたのである。

 光秀が丹波に攻め込んでくると、たちまち直正は劣勢に立たされた。同年11月24日付の但馬の八木豊信書状によると、丹波の詳しい状況は以下のとおり書かれている(「吉川家文書」)。

 光秀が丹波に攻め込むと、直正は竹田方面に引き下がり、居城の黒井城に立て籠もった。そこで、光秀は黒井城の周囲に十二・三の付城を築き攻囲した。黒井城は兵糧が続かないだろうから、来春には落ちるだろうとし、丹波国衆の過半は光秀に与していたと書状を結ぶ。直正は、圧倒的に不利だった。

■劣勢を巻き返した直正

 その後、直正は劣勢を巻き返し、翌年1月には丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)主・波多野氏の助力を得て、光秀の軍勢を追い払うことに成功した。これにより、光秀の丹波攻めはいったん中断する。

 直正は大坂本願寺とも通じていた。天正4年(1574)に比定される9月26日付の下間頼廉の書状(直正宛)は、その状況を詳しく示している(「赤井文書」)。頼廉は書状の前半部分で、北陸の上杉氏、紀伊根来衆、安芸毛利氏の情勢を直正に報告し、計略が整っていると述べた。

 そのうえで義昭の入洛はほど近いとし、丹波の直正、丹後、出雲、伯耆の諸勢力、そして吉川元春の戦いが素晴らしいと評価し、いよいよ分別を極めてほしい(当方のために尽力してほしい)と結んでいる。

 つまり、直正は単独で戦っているのではなく、大坂本願寺、毛利輝元らとも繋がっていたのである。

 しかし、その後の直正の動きはわからなくなる。直正が黒井城で亡くなったのは、天正6年(1578)3月9日のことだった(『赤井家譜』)。享年50。

 あくまで推測にすぎないが、直正は天正4年(1576)末年以降から病に伏せていたのではないだろうか。直正の死によって、丹波の情勢は一気に動き出した。

■むすび

 直正の死後、光秀は信長の命により、丹波攻めを再開した。天正7年(1578)6月、光秀は厳しい兵糧攻めの末に、波多野三兄弟が籠る八上城を落とすことに成功する。黒井城が落ちたのは、その2ヵ月後の8月のことだった。落城後、城主の忠家は遠江国二俣(静岡県浜松市天竜区)に逃亡したといわれている。

 もし、直正が亡くなることがなければ、毛利氏や大坂本願寺とのネットワークを駆使し、もっと信長や光秀を苦しめたかもしれない。