【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝の娘・大姫が死に至った、決定的なワケ
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の24回目では、源頼朝の娘・大姫がついに亡くなってしまった。なぜ大姫が亡くなってしまったのか、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。
■朝幕関係に振り回された大姫
大姫が最初の婚約者の源義高と悲しい別れをし、その後も父の源頼朝の画策によって、一条高能、近衛基通、後鳥羽天皇へ大姫を入内させようとしたが、次々と失敗した。傷心の大姫は、とても誰かと結婚しようなどと思わなかったのだろう。
頼朝が大姫の嫁ぎ先にこだわったのは、もちろん深い理由があった。当時は今とは違い、有力な家と婚姻を通して関係強化をすることが当たり前だった。その関係を利用して、頼朝は自らの立場をより良いものにしようとしたのである。
典型例としては、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の皇后になったことだろう。こうして誕生したのが安徳天皇だった。清盛は天皇家の外戚となることで、さらに威勢を伸長したのである。
当時の頼朝も、清盛と同じく朝廷と接近し、権力基盤を強化したいと考えていた。それを実現するには、いかに傷心した我が娘とはいえ、大姫を手駒の一つとして利用しなくてはならなかったのである。
■後鳥羽天皇への入内
建久2年(1191)、頼朝は後鳥羽天皇に大姫を入内させようと画策したが、この話は頓挫した。建久5年(1194)8月、一条高能(能保の子)との縁談も持ち上がったが、この話も実現に至らなかった。
建久6年(1195)2月、前年から上洛の準備を進めていた頼朝は、妻の政子、大姫、頼家とともに京都に向かった。用件は、奈良の東大寺の落慶供養(寺院の建築や修理の落成を祝うこと)のためだった。
しかし、頼朝の真の目的は、再び大姫と後鳥羽との縁談を実現させることだった。頼朝は、丹後局(後白河法皇の寵妃)と源通親に接近を試みた。通親は九条兼実のライバルで、朝廷に影響力を持っていた。
同年3月、頼朝は丹後局に砂金300両などを送り、政子と大姫との面談を実現させた。一方、頼朝は盟友だった兼実と意見交換をさほど行わなかった。これには、理由があった。
丹後局、通親は国衙領を院の荘園としたが、かつて頼朝はそれを兼実と協力して阻止したことがあった。ところが、頼朝は大姫を後鳥羽天皇に入内させるため、この決定を突然取り消したのである。この翌年、九条兼実は失脚したのだから、頼朝は見放したのだろう。
こうして頼朝は大姫を後鳥羽天皇に入内させるため、あらゆる手を尽くしたが、大姫は建久8年(1197)7月に病没したのである。たび重なる心労が、彼女を死に追いやったのだろう。しかし、頼朝はあきらめなかった。
頼朝には、次女の三幡がいたので、後鳥羽天皇に入内させようと目論んだ。しかし、三幡は正治元年(1199)6月に死去。頼朝も同年1月に亡くなっていたので、この話もなくなったのである。
■まとめ
いずれにしても、大姫は頼朝の手駒として翻弄されたのは事実である。しかし、当時の結婚が自由恋愛ではなく、政略結婚だったことを考えると、決して珍しいことではなかった。とはいえ、頼朝の悲願は大姫の死だけではなく、自らの死によって実現しなかったのである。