【戦国こぼれ話】『信長公記』と題名は酷似しているが、内容がデタラメな史料とは
7月24日(日)から、『新信長公記』というテレビ番組がはじまるという。『信長公記』は良質な二次史料であるが、題名の似た酷い史料もある。その点を深掘りしてみよう。
■『信長公記』のこと
『信長公記』を執筆したのは、織田信長の配下の太田牛一である。牛一は、慶長8年(1603)頃に『信長公記』を完成させたという。一般的には良質な二次史料として知られているが、一次史料と突き合わせるなどし、史料批判をすることが重要である。
■問題がある『甫庵信長記』
『信長公記』が比較的良質であるという評価を受ける反面、題名は酷似しているが、内容に問題が多い二次史料も少なくない。
『信長公記』とよく似た題名の二次史料として、儒学者・小瀬甫庵が執筆した『信長記』がある。書名が『信長公記』と混同されないため、あえて『甫庵信長記』と称されることもある。同書の成立年は慶長16年(1611)頃といわれているので、信長の死後から29年経過後に成立した。
では、『甫庵信長記』はどのように評価されているのか。同書は基本的に儒教の影響を受けており、意図的な改竄や虚構を記すなど、問題が多い史料と指摘されている。
問題が多い第一の理由は、甫庵が大名家に仕えるために執筆した点である。甫庵はおもしろい本を書き、諸大名から注目されようとしたのだ。したがって、同書が歴史史料として用いられることは少ない。
元和8年(1622)に『甫庵信長記』が刊行されると、ユニークな逸話が多々収録されていることから、多くの読者を得た。その人気は、信頼度の高い『信長公記』よりも大きかった。たとえて言うならば、『甫庵信長記』は一種の流行小説のようなものだったのかもしれない。
■さらに酷い『総見記』
遠山信春の著作『総見記』も、信頼度の低い二次史料である。ちなみに「総見」とは、信長の法名(総見院)のことである。
同書は貞享2年(1685)頃に成立し、23巻という大部で構成されている。信長が本能寺の変で斃れてから、百年余を経過したのちに成立した。
信春は『甫庵信長記』を一読して考証を深め、同書の訂正・補足を目的に刊行した。もともとは『増補信長記』という題名だったが、のちに『総見記』に改題されたという。
同書は『織田軍記』あるいは『織田治世記』と呼ばれることもある。内容は、『甫庵信長記』の亜流というべき書物だ。刊行に際しては、信長の子孫に点検を依頼したというが、実際には誤りが大変多く、史料的な価値はかなり劣ると評価されている。
そもそも『甫庵信長記』の史料性が劣るわけなので、当然の結果と言える。こちらも質が悪いので、『甫庵信長記』以上に歴史史料として用いられることはない。
■むすび
太田牛一の『信長公記』は信頼できる史料であるが、類似した書名の書物は似ても似つかないほど質が劣るので、注意が必要である。