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【戦国こぼれ話】今となってはあり得ない。本能寺の変の黒幕説3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀は、黒幕に操られていたのだろうか?(提供:アフロ)

 今から440年前の天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長を討った。ところで、本能寺の変にはさまざまな黒幕説があるが、それが正しいといえるのか検証しよう。

 近年、本能寺の変の研究が格段に進んだ。とはいえ、いまだに本能寺の変が起こった原因はわからないのが実情である。従来の怨恨説(明智光秀が織田信長に恨みを抱いていた)、不安説(光秀が将来を悲観した)、野望説(光秀が天下を望んだ)という説は克服された。

 一方、その間に各種黒幕説が提唱され、その数は数え切れないほどある。要点は、光秀が単独で信長を殺すはずがなく、背後で操った人間や協力者がいただろうということだ。以下、3つの黒幕説を取り上げて検証しよう。

■足利義昭黒幕説

 天正元年(1573)、足利義昭は織田信長と決裂した。その後、紆余曲折を経て、義昭は備後鞆(広島県福山市)へ逃れ、毛利輝元の庇護を受けた。義昭が信長を憎むのは、よく理解できる。

 足利義昭黒幕説の要点は、本能寺の変以前から義昭が明智光秀と事前に連絡を取り合っていたということになろう。つまり、本能寺の変は、両者があらかじめ結託し、仕組んだものになる。

 この説の最大の問題は、史料の誤読と牽強付会な史料解釈、論理の飛躍である。たとえば、本能寺の変後に発給された明智光秀書状(美濃加茂ミュージアム)は、どこをどう読んでも光秀が義昭と事前に連絡を取り合っていたとは読めない。

 そもそも2人が結託していたならば、義昭は一気に毛利氏とともに上洛して、光秀に合流すればよかったのである。しかし、毛利氏は本能寺の変の正しい情報を入手できていなかった。義昭が上洛を志向しながらも、最大の庇護者である毛利氏に変の計画を話していないというのは、最大の矛盾である。

■朝廷黒幕説

 この説の要点は、朝廷が信長から圧迫を受けており、強い危機感があったということだ。そこで、朝廷は信長を討つべく、背後で光秀を操っていたということになろう。最初に申し上げておくと、朝廷から「信長を討て!」と命じた書状はない。

 朝廷が信長から圧迫された代表例としては、正親町天皇を招いた京都馬揃えを挙げることができる。信長は馬揃えという軍事パレードで、信長軍団の強力な軍事力を見せつけ、正親町を恐怖のどん底に陥れたというのだ。

 しかし、馬揃えを見たいと希望したのは正親町であり、観覧後は大変喜んだという記録が残っている。重要なのは、信長は朝廷への最大の奉仕者であり、内裏の修繕などにも寄付していた。したがって、この説は成り立たないと指摘されている。

■イエズス会黒幕説

 イエズス会黒幕説の要点は、イエズス会は信長に武器の供与や財政支援をして、天下統一を後押ししていたが、のちに信長が言うことを聞かなくなったので、光秀に討たせたというものである。

 ところが、イエズス会は主殺しの光秀が日本を支配するのはまずいと考え、秀吉に討たせた。つまり、本能寺の変の一連の流れは、イエズス会の世界戦略の一環だったというわけである。

 この説の最大の問題点は、根拠史料が一切ないことで、そのことはイエズス会黒幕説の提唱者も認めている。史料が残っていない理由については、「一連の関連史料は、秘中の秘なので残らなかった」と説明するが、誰も納得しないだろう。

■むすび

 黒幕説の難は、史料的な根拠が弱いとか、史料の誤読、強引な史料解釈、論理の飛躍にある。一見すると合理的な説明のように思えるが、よく読むと矛盾だらけなので、注意が必要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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