大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源義経と弁慶が討たれたものの、その最期は省略された。義経と弁慶の最期はどうだったのか、その点について詳しく掘り下げてみよう。

 文治5年(1189)閏4月30日、藤原泰衡は約500の兵を率いて、義経が籠る衣川館を襲撃した。義経配下の将兵はわずか10数人に過ぎず、とても防戦することができなかった。以下、弁慶と源義経の最期に至る状況を取り上げることにしよう。

■弁慶の死

 弁慶は泰衡の軍勢と戦い、喉笛を切り裂かれ、出血するなど満身創痍の状態だった。普通の人間ならば、あえなく討ち死にするところだが、弁慶はいっそう力を発揮し、敵をなぎ倒す働きぶりだった。

 弁慶は義経のもとに向かい、最後の別れをしようとすると、義経は法華経を読経していた。義経が「読経はもう少しで終わる。読み終わるまで、(弁慶が死んでも)私(義経)を守れ」と言ったので、再び弁慶は敵兵を討つべく外に出た。

 泰衡の将兵は、敵も味方も討ち死にするのに、なぜか弁慶だけは死なず、これは不思議なことだと驚嘆した。弁慶の鬼神のような戦いぶりに、敵も恐れおののいたのである。

 弁慶は敵を追い払うと、衣川の砂に薙刀を逆さまに立てて、敵を睨みつけた、その仁王立ちした姿は、まるで金剛力士のようで、弁慶は痴れ笑いをしていたという。これが有名な「弁慶立ち往生」である。

 「剛なる者は立ち往生するというから、掛かってみたらどうか」と言うが、敵兵は誰も斬りかかることがなかった。実は、この時点で弁慶は死んでいたのである。

 若い武者が思い切って弁慶を弓で突くと、すでに落命していた弁慶は、大木が倒れるように転んだ。しかし、薙刀を握ったままなので、敵兵は逃げようとすると、弁慶ははそのまま衣川の水底に落ちたのである。

 弁慶は義経の命令を守り、死してなお敵兵を寄せ付けなかったのだ。

■義経の死

 義経の最期は、さまざまな形で伝わっている。『義経記』によると、義経は鞍馬の別当からもらった三条小鍛冶の小刀で、左の乳の下から、縦、後ろへ腹を掻き切り、腸を繰り出したと伝わっている。

 義経は小刀を袖で拭うと、妻を呼んだ。義経が妻を呼んだのは、京都に送り返そうと考えたからだった。しかし、妻は義経とともに死にたいと願ったので、義経も妻子と運命を共にすることにした。子らも死を願ったという。

 その後、妻の傅役の十郎兼房が宿所に火をかけ、猛火のなかで義経と妻子は最期を遂げたのである。このように義経の最期は、豪快、劇的かつ悲壮な形で描かれた。

 ところが、『吾妻鏡』の記述は誠に素っ気ない。藤原泰衡の軍勢が義経の宿所を攻めたことに続けて、義経が持仏堂に入って、まず妻子を殺害し、その後自害に及んだことを記すのみである。

 むろん、『義経記』の記述は、文学性を高めるための創作である可能性は高い。さすがの義経でも寡兵では泰衡の軍勢には叶わず、早々に自害を決断したことになろう。

■まとめ

 義経と弁慶の死は、悲劇として後世に伝わった。その悲劇性こそが、「判官びいき」の源泉となったのである。実は、義経が衣川では死なず、中国大陸に渡り、ジンギスカンになったという。この点に関しては、改めて取り上げることにしよう。