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【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が山伏の姿で逃亡した納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経ら一行は、山伏に変装して逃避行した。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源頼朝に追われた源義経の逃避行が省略されていた。その際、義経は山伏の姿で逃亡したが、その理由について詳しく掘り下げてみよう。

■逃避行した義経

 文治元年(1185)11月、源義経は兄の頼朝の追討から逃れるため、都落ちして九州を目指した。ところが、摂津で暴風雨に遭ったので九州行きは諦め、かつて世話になった奥州平泉の藤原秀衡を頼ることにした。その際、義経は山伏の姿に身をやつして平泉に向かったという。

 頼朝も義経が山伏に変装して奥州に向かったことを予想しており、「義経は妻女や儒者を連れて伊勢、美濃を経て、奥州平泉に赴いた。その際、義経らは山伏あるいは子供に変装した」と『吾妻鏡』文治3年(1187)2月10日条に書かれている。

 ほぼ2年がかりの逃避行だったが、義経らが山伏に変装したのには、もっともな理由があった。以下、その点を詳しく述べることにしよう。

■義経が山伏に変装した理由

 鎌倉時代以降になると、諸国の重要な地点に関所が設けられ、通行人から税を徴収していた。徴収した通行税は、寺社の造営費用に賄われるなどした。それゆえ、諸国をめぐる念仏聖、山伏は通行税を免除される特権を得ていた。

 言うまでもないが、当時の道は現在のように整備、舗装されたものではない。また、慣れていない場所では、道に迷うことがあった。山伏は諸国をめぐっていたので、間道などを知っており、戦争時に兵が退却するときは道案内をすることもあった。

 そのような事情から、山伏が関所を通過する際はフリーパスだった。下手に詮索しようものなら、かえって関所の役人が山伏から無理難題を吹っ掛けられるなどした。義経が山伏に変装した大きな理由である。

 むろん、義経らが逃避行する際は、行商人などに変装する選択肢もあったが、それでは関所で何かと詮索され、捕縛される可能性もあった。山伏姿なら、その可能性が極めて低くなるのである。

 義経は安宅関で怪しまれ、弁慶に金剛棒で激しく打擲された。それを見かねた富樫は、義経と知りながらも、関所を通過させた。これは逸話であるが、義経の逃避行の苦労を物語っている。

■むすび

 この頃、すでに頼朝は諸国に守護、地頭の設置を朝廷から認められ、義経を追尾する態勢が完成していた。義経を捕縛すべく、追っ手も遣わされていただろう。

 いずれにしても、義経にとっての最良の選択肢は、山伏に変装することだったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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