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【深読み「鎌倉殿の13人」】ああ無念!木曽義仲の最期と巴御前との別れ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲の墓は、滋賀県大津市の義仲寺にある。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、木曽義仲が宇治川の戦いで源義経に敗れ、ついに討ち死にした。その最期について、詳しく掘り下げてみよう。

■勢多、宇治川の戦いでの敗北

 寿永3年(1184)1月20日、木曽義仲は勢多、宇治川の戦いで、源義経、同範頼に敗れた。敗北後、義仲軍の将兵は散り散りになって逃亡したという。彼らは、落ち目になった義仲を見捨てたのである。

 戦場を離脱した義仲は、巴御前や配下の今井兼平とともに北陸へ落ち延びようとした。本拠のある北陸で態勢を立て直し、再び頼朝と戦おうとしたのだろう。

 ところが、そうはうまくいかなかった。わずかな手兵で近江国粟津(滋賀県大津市)に着いた義仲は、一条忠頼の率いる軍勢と交戦に及ぶことになった。

 忠頼は武田信義の嫡男で、かつて義仲とは信濃国をめぐってひと悶着あったという。したがって、忠頼の戦いにかける意気込みは、並々ならぬものがあった。

■義仲の最期

 都落ちして忠頼に追撃された義仲の軍勢は、今井兼平、巴御前、手塚光盛、手塚別当を合わせてわずか5騎にまで減っていた。こうなると多勢に無勢で、忠頼の軍勢に敵うはずがなかった。

 手塚光盛、手塚別当の2人は、義仲から逃げるよう促されたが、あっという間に敵に囲まれ討ち死にした。

 最後の戦いを前にして、義仲は鎧が重く感じると弱気になった。兼平は義仲に対して、自分を千騎の武者だと思ってほしいと言い、粟津の松原で静かに自害するよう勧めた。

 義仲は兼平に一緒に討ち死にしようと呼び掛けたが、兼平はこれを拒んだ。というのも、義仲が名もなき雑兵に討たれると、末代まで名を汚すからである。そして、改めて義仲に自害を促した。

 義仲は兼平の助言に従って、馬で粟津の松原に向かったが、運が悪いことに馬が田のぬかるみにはまって動けなくなった。そして、義仲は無念にも敵に矢を射られ、討ち死にしたのである。

 義仲が討たれたので、ついに兼平も観念した。憲平は、東国の武士たちに「日本一の剛の者の自害の仕方を見よ」と叫ぶと、口の中に太刀を咥え、馬から飛び降りて絶命したのである。

■むすび

 巴御前は義仲から、女であることを理由にして、早々に逃げるよう命じた。義仲は最期の瞬間に、女がいては名折れになるとも考えていた。いや、実は深い愛情があったのかもしれない。

 しかし、巴御前は義仲の命に従わず戦い続け、大力で知られた敵の恩田師重を討ち取ると、鎧と兜を脱ぎ捨て、東国へと落ち延びたといわれている。その後、巴御前の行方はようとして知れない。

 そもそも巴御前は『平家物語』などにしか登場せず、一次史料はもとより、『吾妻鏡』にも姿をあらわさない。実在したのか否かも疑わしい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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