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【深読み「鎌倉殿の13人」】ついに北条政子と亀の大バトル勃発!その真相とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条政子は亀と大バトルを演じた。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目では、ついに北条政子と亀の大バトルが勃発した。少し消化不良気味の部分があったので、この点を深く掘り下げてみよう。

■亀の前(亀)とは

 亀の前は、良橋太郎入道なる男の娘であるといわれている。しかし、亀の前の父の記録は皆無に等しく、どのような人物か不明である。亀の前は『吾妻鏡』にも登場するので、実在の人物なのは疑いないが、生没年は不詳である。

 源頼朝は伊豆に流された頃から、すでに亀の前と関係していたという。関係といっても、最初から男女の仲だったのかはわからない。

 亀の前は美人で、非常に穏やかな性格だったといわれている。もし、この話が事実ならば、頼朝の心がとらえられたのも、うなずけるところである。

 しかし、頼朝は流人(=罪人)だったのに、なぜ女性と関係できたのかという疑問が残る。普通の人が素直に考えれば、誰もが持つ疑問だろう。

 当時の頼朝は獄舎に繋がれることなく、伊豆の目代の監視下に置かれたものの、ある程度の自由があった。頼朝は亀の前と関係したり、妻となった北条政子と駆け落ちしたりと、流人生活を楽しんでいたのだ。

■北条政子と亀の前とのバトル

 事の発端は、寿永元年(1182)8月、政子は頼家を出産するため、比企谷に移り住んだことにある。政子の出産準備は、頼朝にとって大きなチャンスとなった。

 頼朝は鎌倉に亀の前を呼び出すと、小中太光家の屋敷に住まわせたという。その後、亀の前は飯島(神奈川県逗子市)の伏見広綱の屋敷に移り、頼朝との関係を続けた。わざわざバレないよう、亀の前を遠くに住まわせるという念の入れようだった。

 出産を終えた政子は、二人の関係を知り激怒した。頼朝と亀の前の密通を政子に知らせたのは、北条時政の妻の牧の方だった。

 同年11月、政子は、牧宗親(牧の方の兄)に広綱の屋敷を破却するよう命じた。驚いた亀の前は、這う這うの体で屋敷を逃げ出し、鐙摺(神奈川県葉山町)の大多和義久の屋敷に身を寄せた。

 これは、「後妻打ち(うわなりうち)」と称されるもので、夫が離縁するとき、元妻が後妻の襲撃を予告して実行する風習だった。ただ、この場合は、頼朝と政子の離縁ではない。愛人宅にも適用されたようである。

 一連の事態を知った頼朝は激怒し、宗親の髻を切り取るという恥辱を与えた。髻を切られるというのは、武士にとって最高の不名誉だった。

 宗親は頼朝に土下座して謝罪したが、頼朝は決して許さなかった。一方、時政は妻が牧の方だったので、宗親への仕打ちがどうしても受け入れることができなかった。

 時政らは、一連の頼朝の酷い仕打ちに怒りが収まらず、ついに伊豆へと引き籠もった。出仕を拒むというのも、時政らの抗議行動の一つだった。

 同年12月、亀の前は再び光家の屋敷に移り、頼朝の寵愛を受け続けた。なんとも暢気な話である。一連の騒動に関与した伏見広綱は、政子よって不幸にも遠江国に流された。飛んだとばっちりである。

■むすび

 この事件の結末はどうなったのだろうか。事件の経過を示す『吾妻鏡』は寿永2年(1183)の記事を書いているので、その後の顛末は不明である。なお、この事件以降、亀の前は史料上から姿を消す。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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