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【深読み「鎌倉殿の13人」】復習しよう!以仁王の「打倒平氏」の令旨に書かれていたこと

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
以仁王の打倒平氏の令旨には、何が書かれていたのか。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 本日の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」3回目は、以仁王の「打倒平氏」の令旨がポイントになった。そもそも以仁王はどんな人で、令旨には何が書かれていたのだろうか。

■以仁王とは

 以仁王(もちひとおう)は、仁平元年(1151)に後白河天皇の第2皇子として誕生した。実は第3皇子だったのだが、兄の出家により第2皇子に繰り上がったのだ。

 以仁王は学問に優れており、人格も円満だったという。また、母はのちに権大納言を務めた藤原季成の娘・成子であり、将来の天皇候補の一人でもあった。

 仁安元年(1166)、母方の伯父・藤原公光がすべての職を解かれて失脚した。公光が失脚に至った理由は不明である。しかし、この一件は、公光だけの問題に止まらなかった。

 公光の失脚は以仁王にもおよび、ついに親王宣下を受けることはなかった。これにより、以仁王は皇位継承の道を断たれたのである。

 以仁王が皇位継承の道を断たれたのは、後白河の女御(天皇の寝所にはべる女性)だった平滋子(時忠の妹)の嫉妬があったという。というのも、応保元年(1161)、滋子は憲仁(のちの高倉天皇)を産んでいた。

 永万元年(1165)、憲仁が皇太子になると、外戚だった時忠の地位は大いに上昇した。つまり、以仁王の将来を断ったのは、平氏一門だったといえよう。

 以仁王は不満を抱くだけでなく、将来が不安になったに違いない。

■以仁王の挙兵と令旨

 治承3年(1179)、後白河がクーデターを起こすと、平清盛はただちに鎮圧した(後白河は幽閉された)。この一件により、以仁王も所領を没収された。このことが以仁王に打倒平氏を決意させたのだろう。

 翌年4月9日、かねて平氏に不満を持っていた源頼政とともに、以仁王はついに挙兵した。その際、諸国の武士に送られたのが「打倒平氏」の令旨である。

 令旨とは、皇太子、皇后、皇太后、太皇太后の命令を伝達する文書のことである。形式は奉書といい、皇太子らの意向を伝えるスタイルだった。

 以仁王の令旨は源仲綱が作成し、東海、東山、北陸の三道の源氏らに対し、平清盛や平氏に従う武士らを討つように命じたものである。

 大きなポイントは、清盛ら平氏が権勢に任せて、次のとおり好き放題にしていることである。

①国々を不当に支配し、また財物を奪うなどし、人々を悩ませていること。

②後白河を幽閉し、廷臣を流罪または殺害していること。

③廷臣の官職を奪い、罪のない者を罰し、功績のない者(平氏に従う者)に恩賞を与えていること。

④寺院の高僧を拘禁し、学僧を獄舎につなげていること。

 以仁王はこうした「打倒平氏」の理由を挙げ、源氏などの諸国の武士に決起を呼び掛けたのである。協力した者には望み通りの恩賞を与え、協力しない者は厳しく処断すると伝えた。この令旨は、源頼朝のもとにも届けられた。

■むすび

 以仁王は怒りを抑えきれず、ついに頼政とともに挙兵した。結果がどうなったのかは、ドラマの進展にあわせ、改めて解説することにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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