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【深読み「鎌倉殿の13人」】「平氏をぶっ潰す」と威勢がよかった北条宗時は、どんな人物だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石橋付近の町並み。(写真:sirius/イメージマート)

 本日、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第2回目が放送される。片岡愛之助さんが演じる北条宗時は非常に印象的だったが、本当にあんなに威勢がよかったのだろうか。

■北条宗時とは

 北条宗時は、時政の嫡男として誕生した。母は、伊東祐親の娘である。しかし、生年は不詳で、その生涯も神秘のベールに包まれている。

 弟の義時の誕生が長寛元年(1163)なので、それ以前に誕生したのは間違いないだろう。

■山木兼隆邸の襲撃

 治承4年(1180)8月、源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、宗時も時政、義時とともに出陣した。このとき、宗時は、軍勢の先導役を務めたといわれている。

 兼隆の邸宅は、ちょうど三島大社(静岡県三島市)の祭礼で郎党が出払っており、警固が手薄だった。その虚を衝いて、頼朝方の加藤景廉が兼隆を討ち取ったのである。

■石橋山の戦い

 勢いに乗った頼朝率いる軍勢は、石橋山(神奈川県小田原市)で平氏方の大庭景親の軍勢と戦った。景親の軍勢は3000といわれているが、頼朝の軍勢はわずか300にすぎなかった。

 敗北した頼朝は逃走したが、景親は敗走する頼朝を追撃した。ここで頼朝は土肥実平の助言に従い、再起を図ることとしたのである。

■宗時の死

 このとき北条時政・義時は、箱根湯坂を経て甲斐国へ逃走したが、宗時はなぜか2人と行動をともにせず桑原(静岡県函南町)へと向かった。

 しかし、宗時は早川付近で伊東祐親の軍勢に囲まれ、その配下の小平井久重に討ち取られたのである。

 なお、久重は平井郷の住人だったが、治承5年(1181)に捕縛され、腰越の浜で梟首された。

 現在、静岡県函南町には、宗時の供養塔がある。建仁2年(1202)6月、時政は夢のお告げで伊豆国へ向かい、宗時の墓前で追善供養を行った(『吾妻鏡』)。

■むすび

 ドラマのなかでの宗時は、「平氏をぶっ潰す!」と小泉純一郎元総理のように意気盛んだったが、実際にそう言ったのか不明である。

 それどころか、その生涯ですら、満足にわからないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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